私本藤原範頼 西行の章6

壇ノ浦


元暦二年/寿永四年三月二十四日(1185年4月25日)。
長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で合戦が始まる数刻前。
我々は最後の軍議を行っていたのだが、ここで思わぬ論戦となった。
軍監・梶原景時が、先陣を望んだのだが、その際に一同から、思わぬ失笑が漏れたのだ。

出遅れたことの贖いか?

屋島も志度も、結局来れずじまいじゃったからなあ。

梶原殿はかっと赤面されたが、失笑は止まぬ。
だって同じ嵐を、義経と郎党は、ものすごい短時間で抜けて来ているのだ。
有能な?軍勢とて、来なければ意味はない。

この度の戦さは終い戦さになると思う。
悪いがこれはわが郎党、佐藤継信に捧ぐるものとしたいゆえ、私義経が先陣仕る。

一同ざわめいた。
いまこの戦の主たるのは、陸が私で海が義経である。
変則ながらこの体制で布陣されておる。
そこで大将自らが先陣に立つなど聞いたことがない!

では遅れてきた老将の軍に任せるのか?
また出遅れたらどう責任をとる!

義経、それは言いすぎだ、と私が制する前に、激怒した梶原が剣を抜いた。

愚弄するか!
鎌倉殿の弟であるとはいえ、生まれの低い九男坊主がこの梶原を舐めくさるかあ!

受けて立つわ!この老害があ!

うわー。
とんでもないこととなった…
されど義経が生まれの低い九男坊ならば、私は同じく生まれの低い四男坊ということになるではないか。

控えられよ梶原殿。
もとはといえば出遅れられた御郎党に非があるのではないのか?
それともこの範頼をも、出自の悪い四男坊と謗られるのか?

私てきには珍しいほどの咎め口調で言うと、さすがにご老体は押し黙った。
ここぞと言葉を継ぐ。

私も海大将が自ら先陣たるは例外であると思うてはおる。
されど我が弟(てい)義経は、屋島、志度と、とんとんと勝利を重ねてきておる。
この勢いと名声を生かして三戦目行うは幸先よきと私は思う。
生まれの低い四男坊の意見では、聞けぬなら仕方ないが?

圧をかけて言い放つと、さしもの老将も言い返してはこず、軍議はここでおひらきとなった。

このような次第で先陣たるのだから、心せよ。

弟よと付け加える前に、義経は深々一礼した。
その目はいつまでも梶原老を睨んでいた。


そして戦いは見事だった。
風も荒波も、最初は我らの敵に回ったものの、戦いが長引くにつれ、潮目すら味方に変わっていった。
寄せる波はいつか引き、引いていた波はいつしか寄すに転ずる。
そこへもってきて、ただでさえ優位である源氏に、さらにある一団が合流したのだ。
それは、平家古参、子飼いなるはずの田口成良の軍。
壇ノ浦の潮目のただなかで、突然源氏に翻ったのだ。
先の戦さで山賊上がりの三郎とやらが、田口の嫡男・田内某の三千騎を殺さず従えたことが、まさにこの場で生きたのである。
その数三百艘。
八百五十艘対五百艘だった戦況が、一気に変わって千二百対二百。
帰る港もない平氏が、いよいよ多勢に無勢となったのである。
これでいよいよじっくりかかれる。
安徳天皇と三種の神器も返してくるだろう。
恭順するだろう。
長い戦いだった。

と。
私はしみじみ思っていたが、見れば船上、義経は、引き続き弓を引き絞っていたのだ。

義経!!

鋭く叫んだが、弦は緩められはしない。
放っただけでなく次をつがえた。
それを放つとまた次を。
義経が放ち続けるので、いったん弓を下ろした郎党も、再び弓を構えた。
長刀を構えたまま弁慶が跳ぶ。
船を移り、また長刀を使い、船を移る。
屋島で主が見せた、八艘飛びにも似ているようだが、重量のある弁慶がやる分、脅威感はいや増して、威圧感もものすごかった。

やめろ!
やめさせろ!!

叫んでいるのは私ばかり。
他の武将も後れをとるまいとか、戦ささなか以上に熱中し、敗軍を叩いている。
平氏はと言えば、抗おうとする武将に知盛が、無駄な殺生はするなど諫めているふうで、その間にも、我が方は殲滅戦を続けている。

やめるのだ!
頼む!
やめてくれ!!

私はほとんど泣いていたが、その間にも女が、こどもが、船頭までが射られ斬られしていた。
遠目にも、身分の高そうな老女がいま、船縁を踏む。
二位尼だ。
跳ぶな。
ああ!
幼子を…


海平氏は死に絶えた。
陸兵士が残っているといい、義経は早々に西国を引き上げていった。


それでも地球は回っている