ブラッディチャイナタウンを描き始めたきっかけ
noteで私が漫画を連載しはじめた経緯について書いておきます。まずファンタジウムの連載が終わって、とある青年漫画誌を紹介していただき、編集さんがお仕事を前提に会いに来ました。しかしその時言われたのが「どんな漫画家でも連載3回分のネームを出してもらってネーム審査をして掲載するか決める」というものでした。読み切りではだめですかと聞くと、赤字なので単行本を出したいから連載しかさせないとのお話で、その時点で編集さんも「ひどいですよね3回分切らせて没なら1円も出さないなんて」とおっしゃっていました。とりあえず私は2度ネームを3回分を切って提出しましたが続けて没になりました。計200枚くらい没になったと思いますが、もちろん1円のお金も出ません。その後、再び青年誌にネームを出して没になり、知っている編集さんのいる青年漫画誌に仕事の話をするとそこでも「連載したいなら3回分のネームを出してください」と言われました。そこは三か月おきに40人ほどの編集がネームを読んで投票の結果を見るのですが、最初の投票で私は2位、しかしその時1位になった人もどういうわけか掲載されないとの事。この時点でいやな予感はしていたのですが、その後2度ネームを直して再度ネーム審査に投稿しても、編集長が掲載しないという一言で半年ぐらい抱えていた私のネームは全没になりました。これに半年以上費やしてしまい、その次に青年漫画誌に仕事の話を持って行った時、やはりネーム3回分を提出してほしいと言われて、なにか暗黙の業界の掟でもあるのかと驚きました。そこの編集部は35人の編集がやはり読んで投票結果で連載させるとの事、もう仕方ないのでネームを切ったのですが、担当編集さんがとにかく忙しくて私のネームを読んでくれないのです。こちらとしてはすぐに合否を知りたくてメールをしたのですが、返事のメールに「どんなに良いネームを切っても私の言うことを聞かないと掲載しません、杉本さんのネームは私が預かっている中で、目を通す優先順位は一番下です」と書かれていました。なにかこの時点で、腕が動かなくなってしまい、私はそのままネームについてのやりとりをやめてしまいました。私自身が、編集さんの望むほどの力がなかったという事でしょうが、本来こんな苦しい思いばかりを味わうために漫画を描き始めたのだろうかと考え込んで、泣きたいのですが涙が出ないという毎日を送っていました。そして、そもそも出版社に仕事としてお金をもらうために描かせていただく漫画として考えると、やはりおもしろくなくなるという気がしてきました。編集さんや雑誌の好みに合わせないで、私が読みたいもの、描きたいものを描く。とはいえ不安もあったのですが、お友達の漫画家、高瀬理恵先生が「杉本さんはジュネの頃からひとりで漫画を描いていたんだから、編集さんがいなくてもできるはず」旨、言ってくれたことが大きかったです。とりあえず「描こう!」という気持ちだけで描き始めたのが「ブラッディチャイナタウン」で、子供の時から好きだったヒッチコックやホラー映画のテイストで、思い出のある不思議な中華街と、森川久美先生、久掛彦見先生の、闇を抱えた耽美な漫画に捧げる私なりのオマージュが描けたら、と思っています。おそらくこれはゴア描写等でどこの雑誌にも掲載できない作品ですが、私自身は楽しんで描いています。今後どうなるのかわかりませんが、おもしろいと言って読んでいただければ私は幸せです。