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彼女にとり憑いていたのは女の姿をした水の化身ではなく「時代」ではなかったのかと、今あらためて思う。

彼女の名前を一度も福岡の詩人から聞かない、それがきっかけだった。

氷見敦子(ひみ・あつこ)。

大学在学中に『荒地』同人でもあった中桐雅夫に出会い本格的に詩を書き始める。8年後、4冊の詩集と1冊の詩画集を遺し他界。死後6年を経て思潮社から『氷見敦子全集』が刊行される。享年30歳で詩のキャリアも短い氷見の全集の栞には、鈴木志郎康、藤井貞和・野沢啓などそうそうたる名が並んでいる。

それにはやはり理由がある、と私は思う。

もしまだ「日原鍾乳洞の「地獄谷」に降りてゆく」を知らないなら、彼女の詩に触れていないのなら、今から読んで欲しい。強くそう思った。

そう思わせる力が彼女の詩にはあった。

そもそも私が以前に読詩会を発足した理由は

「好き嫌いで切り捨てるのではなく、詩を書く目線から詩を読み、自作に役立てることが出来ないものか」

という思いからだ。

九州の図書館では宮崎県にしか置かれていない氷見の詩集、私がこれを福岡で知らしめ自身も学ぶのだと読み始めた。

しかし25歳で刊行した第1詩集で既に彼女の詩のスタイルは確立されていた。私は早々に頭を抱えることになった。

8年という限られた時間のせいか、氷見が詩を書き始めてからのブレイクスルーが私には感じられない。それどころか、閉じられないバーレーンを扱った手法は彼女が源流ではないかと仮説を立てたくなるほどの手練れなのだった

(話は逸れるが続ける)藤井貞和は全集の栞で氷見のバーレーンの扱いについて「決して閉じられないバーレーンは「未完」をあらわしている」と熱く言及している。氷見の手法に魅せられた藤井の作品も、この時期からバーレーンの手法が増えているように思う。現代の使い手となれば渡辺玄英がまず浮かぶだろう。この渡辺が、私に藤井の詩を教えてくれたのだ。「詩話会」という詩の合評会で、出席者に藤井の詩が好きだと語っていたのが記憶に新しい。つまり、この閉じられないバーレーンの流れは氷見敦子から藤井貞和、そして渡辺玄英に引き継がれ多様化したと私は考えている。)
 

本題に戻る。よし、もうこうなれば思い切って方向転換しよう。作品から自作に役立ちそうな要素を導き出すのが困難なら、外堀から攻めるのだ。

幸い彼女の全作品(エッセイ・書簡・日記の一部に至るまで)は全集で蒐集されている。彼女の暮らしてきた街、将来の夢、好きだった作家、最後に同棲していた男…。私は昔から読書家ではなかったが仕事の営業活動や接客でそれなりの実績をあげてきた。

完結している詩人の人生が目の前にあるのだ。邪道だろうがそこから類推し作品に切り込む方がむしろ得意なことかもしれない。

 昭和30年に第一子の長女として生まれる。大阪府寝屋川市で11歳までをその街で暮らし、父親の仕事で関東周辺に何度か居を移している。寝屋川から北鎌倉、船橋から逗子。彼女の傍らにはいつも川か海があった。そういえば氷見の作品は水にかかわるものが群を抜いて多い。

ふと気になって「水」にかかわる作品がどれだけの割合を占めるのか調べてみた(船出や魚市場という単語も水にまつわるとみなし、詩とエッセイに限定した)その数は実に6割にも及んだ。

「水」の対比として氷見が使っていた単語は「石」にまつわるものだろう。石垣、墓石、砂…都会のビル群も石のようなものかもしれない。水が枯れて固まったもの、動きようがないもの、そこに彼女の息苦しさの象徴があるように思える。井上弘治と暮らした家は文京区、ここが彼女の最後の家となった。あたりを見回しても川も海もない街。私は何とも言えない複雑な思いを抱く。

 小学2年からピアノを習い付属の女子高等学校を卒業、フェリス女子学院大学の英文科に進学する。いずれは世間的にも申し分ない夫を得て幸せな妻になることが終着点とされるような、育ちのいいお嬢様が乗せられるレールだ。

幼少期の家庭環境が、成人してからも影響を及ぼすことはよく言われる。

私見だが、問題意識の持ち方にもかかわると考えている。

生きるうえで根幹となる衣食住に恵まれなかった幼少期を過ごすと、自分が常にさらされてきた格差や理不尽さを忘れず政治や社会的な問題という外部要因に興味を持ちやすくなる。

逆にそれらに恵まれ衣食住の面で不自由なく育つと、それはそれで家庭内の軋轢などを敏感に察し自己の不在という内部要因を深く追求したくなるように思う。

氷見の場合は間違いなく後者であろう。

彼女の素地は本来ものすごく素直だ。それは彼女の詩を読めばわかることだ。読詩会で彼女の詩を初めて読んだメンバーが「これは散文ではなく詩になるのか」と疑問をぶつけてきたことがあった。昨今の現代詩を読んでいればそう思う人も少なからずいるのではと頷けた。氷見はレトリックを駆使して表現する手法でなくもっと自分に近いもの、身体のリズムに即して言葉を繰り出していく手法を使っていた(彼女は自分の素地に適合したそのスタイルを最後まで手放すことはなかった)。

 時代は学園紛争の真只中でもあり急激な経済成長を遂げた高度成長期だった。氷見が16歳の頃、はじめて火炎瓶や、武装した機動隊などを直接目にすることがあったようだ。思春期を迎えたこの時期から、両親の期待と氷見の自我に大きな隔たりが生まれていく。

18歳の夢はシンガーソングライター・女優・小説家・イラストレーター。彼女の年譜をゆっくりとたどり、青春時代の日記を読んでいくうち痛々しさが私にまとわりついて離れなくなってきた。

この感覚は以前に味わったことがある、年の離れた姉が良く聞いていたユーミンの曲だ。

恋人がサンタクロースで冬にはスキーに行って彼が浮気したら彼のママに叱ってもらって。したたかに都市を闊歩するファッショナブルな女たちの横顔。そんな曲を聞いた後の感覚に似ているのだ。

松任谷由美は29年生まれで氷見とはひとつ違いだった。直感めいたものが働き、私は30年生まれの女性を調べていった。小説家に『もう頬づえはつかない』を書いた見延典子が、女優では烏丸せつこ、田中裕子、池波志乃がいる。揃いも揃って魔性の色香を漂わせた女たちだ。

詩人は伊藤比呂美と平田俊子。昭和一桁生まれのオノ・ヨーコや白石和子のように突き抜けてまではいない、けれど家に縛られて生きることから脱皮しようともがく女たち。その勢いがもはや詩の世界まで流れ込んできていた。

60年代に白石和子が「男根」を書いて脚光を浴びたように、伊藤が当時どんなに「女性詩人」の「女性」という枕詞に不快感をあらわそうと「おっぱい」や「毛」を、「性」をあっけらかんと書いたこと。それで伊藤を知った人も多かったと思う。平田もシニカルでブラックジョークのような夫婦関係を詩に持ち込み、独特のスタイルを編み出している。

私が思うユーミン世代に生まれ育った女たちに共通するもの。

それは、男の手から飛び立ち晴れやかに空を舞う鳥が、くたびれた飼い主の元に、飛び疲れ舞い戻るしかないような痛々しさと言えばいいのだろうか。

時代の空気にあてられ、性を、女を、題材に書かざるをえなかったかもしれないあの当時の「女性」詩人たち。

氷見はその虚しさに早い時期から無意識に気づいていたのではないか?

だから霊と肉の葛藤を生涯描き続けた作家であるジュリアン・グリーンの『他者』に強く惹かれ、

自作の「想念の女」では


 いつも「男」という状況だけが
 その女めがけて
 汚水のように放出されるのだった


と書いたのだろう。

近藤洋太の言葉で明らかになったが、彼女と井上の駆け落ち話しも事実とは異なっていた。

自立を熱望していた彼女が29歳でやっと実家を離れられたのは男の手を借りてであり、その作業も夜遅くまで手伝ったという母の姿が隠されてあった。

ならば氷見はジェンダーに阻まれ憔悴したまま逝ってしまったのだろうか?

絶筆だった「日原鍾乳洞の「地獄谷」へ降りてゆく」は、

ひとりの人間がいかに生き、いかに恵まれ、いかにもがこうとも、抗いようのない「死の口」が常に平等に私たちの傍にぽっかり空いていて、いつどこで、そこに吸い込まれるのかわからないという真実を、

その「死の口」に入る時ひとは必ずひとりなのだ

という凄まじい現実の孤独を、私たちの前に叩きつけてくる。

胃癌の女が繰り返し胃液と血を吐きながら、便を垂れ流しながら書いた絶唱が「黒々とした冷えた石の感情」となって襲ってくる。

しかし氷見よ、あなたは気づいていただろうか?

そこに、あの鍾乳洞にまぎれもない「氷見敦子」がいたことを。あなたはあの地獄谷に続く道のりを降りながら、今ではもう彼方になったすべてのものを自ら諦め、そして捨てたのだ。

幼少期から体が丈夫でなかった経験から、あの体で書き続けるためには先に何ひとつ連れていけないことをあなたは知っていた。

自分の「本能だけ」で「内部をぼんやり照らし」未完で終わるかもしれないという予感を持ちながらそれでも、最後に詩を書くことを選んだのだ。

メタモルフォーゼを繰り返し、畏れ遠ざけようとしても彼女の側を離れなかった水の化身。

それこそが「時代という集合的無意識の悪意」から現世の氷見敦子を解放しようとした守護神、もうひとりのあなたに他ならなかった。

あなたを連れ出す手、その手だけをとることで、時代が望む女を演じる強迫観念に圧殺され、瀕死になっていた現世のあなたの姿は消滅した。

この作品で、この作品を書くために「選びとった行為」で奇しくもふたりは融合を果たしそれを成し遂げたことによって

すべての役目を終えたのだ。

(年不明)7月25日氷見の日記より
 25パーセントの悩みが今やっと固い決意に変わった。私は素晴らしい言葉を発見したのだーそれは〝死ぬまで努力を続ける〟という事。そう、死ぬまでなのだ。少なくともこの言葉通りに生きていけば私は敗者にならなくてすむ。私は死ぬまで努力を続けることを、空に輝く星と月と太陽の名において誓う。
                 参考文献『氷見敦子全集』(思潮社)

                               (了)

アンビリーバーボーな薄給で働いているのでw他県の詩の勉強会に行く旅費の積立にさせていただきます。