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シンエヴァという「おまじない」※ネタバレ

ネタバレ注意

※この記事はネタバレを多大に含みます。



シンエヴァとはなんだったのか

シンエヴァは「ゲンドウが子供であるシンジと関係を結び直す話」です。

そして同時に「庵野監督が自分が産んだ子供たるエヴァという作品と関係を結び直す話」と解釈することができます。

ゲンドウが庵野監督のメタファーであるというのは、ほぼ異論なくうけいれられています。ならば、シンジに対応するものはなにかと考えればエヴァンゲリオンという作品とするのが順当です。

考えてみればエヴァ破の最後のニアサードインパクトは「ニア」という言葉のとおり不完全なアニメ版最終回を連想させます。

そのあとシンジが不在の間に起きたとあっさり語られるサードインパクトはエヴァという作品が放送期間外でファンに持ち上げられ神格化された経緯を暗喩してるのかもしれません

そしてQでのシンジの「やりなおし」が旧劇場版だと考えれば、その失敗も含めて綺麗にエヴァをとりまく歴史と符号します。

旧劇のその後

エヴァンゲリオンという作品は、劇中のサードインパクトのように、様々な悪影響を発生させ、インフィニティのなりそこないのように作品に呪縛されるオタクを生み出した、と言える側面があります。

監督にとっては向き合いたくない忌み子のようにになっていたと言えるでしょう。

しかし、旧エヴァが公開されて20年、その忌み子は庵野監督の手を離れて世間から緩く受け入れられていきます。派生作品やコラボなどなど、そしてパチンコで本来まったく縁がない高齢のご婦人にまでエヴァは認知されるに至りました。

それらの認知はエヴァそのものへの認知とは言えない、まがい物の「そっくりさん」ではありますが、ありのまま世間から受け入れられてしまいます。

つまり、第三村での日常は旧劇のその後のエヴァという作品の受け入れられ方を表現していると言えます。

かつてエヴァに憧れ毒されていたとも言えるケンスケも、すっかり成長してサードインパクトも悪いことばかりではなかったと語ります。「そっくりさん」だけでなく、エヴァそのもの(=シンジ)もいつのまにかありのままに優しく見守れるまでになりました。

監督の主観では惨事を引き起こした忌み子でしかなかったエヴァという作品は時を経て日常で健全に消化され、様々な層から優しく肯定されていたのです。

父と子が向き合うとき

ゲンドウたる庵野監督には人類補完計画に複数のプランあったように、いくつかの選択肢がありました。

エヴァを商業的に稼ぎ続けられる作品にする方向性

カルト的でミステリアスな呪縛するエヴァをつくりつづける方向性

そして、かつてない神のような作品をつくり汚点を挽回する方向性。

おそらく庵野監督はすべてを挽回する「人類補完計画」のように、エヴァを昇華し神にするための作品をつくりあげないといけないという呪縛に囚われていたのでしょう。

しかし、ゲンドウが関与しないところ成長したシンジと向き合わざるをえなかたように、庵野監督も年を経て成熟したエヴァという作品と向き合うときがきます。

庵野監督にとっての「ユイ」とは

劇中でゲンドウは全てはユイを求めるためであったと語り、マイナス宇宙でユイを探しますが見つかりません。

ゲンドウ=庵野監督ならば「ユイ」に対応するものは、監督がすべてを忘れて夢中になり依存し、すべてを捧げた「アニメ・特撮文化」に他なりません。

庵野監督とアニメ文化がであってエヴァが産まれて「神話になれ」とかつて夢中になった数々の名作を超えることを目指すも、いつしかそれは呪縛となり大惨事を引き起こし監督は理想を失ってしまいます。

しかしゲンドウが成長したシンジの中にユイを見つけたように、庵野監督もようやく成熟したエヴァのなかにかつてのアニメの輝きを見いだせるようになります。

ならば人類補完計画のごとくにすべてを挽回する作品をつくる必要もありません。もはやエヴァがありのまま受け入れられているのなら、それを信じて呪縛になっていた不完全な神話だけを解体すればいい、というのがシンエヴァンゲリオンなのではないでしょうか

神話の解体

神話の解体により、エヴァに呪縛されたファンのメタファーであるインフィニティのなりそこないも人間に戻り、キャラクターたちも一人ひとり丁寧に開放されてく描写が行われます。

そして最後にシンジがユイに助けられたように、エヴァという作品もアニメ文化に許容され、良くも悪くもただのアニメとなって呪縛から開放されたと表現されます。

それは庵野監督の主観に近く、とっくの昔に呪縛から開放されてるファンにとっては白々しさもあるほどですが、旧劇と違い説教臭さも不快さもなく、清々しさや爽快感すら感じます。

それは庵野監督が理想と野望を断念し、オトシマエをつけるために、拗らせた人間が間違いで作った作品だという身も蓋もない自省までして、全力で綺麗に解体してみせたところにあるのではないでしょうか。それにより監督もようやく呪いから開放されたのでしょう。

さよならの「おまじない」

各所の感想で卒業式や葬式と表現されるほど綺麗に神話や呪いが解体されてもエヴァという作品が現実から消滅するわけでありません。それぞれの心のなかに、そして商業展開にもありのままのエヴァや「そっくりさん」が残り続けるでしょう。

第三村で強調されてたように、「さらば、全てのエヴァンゲリオン」というキャッチコピーの「さよなら」はまたエヴァと出会いより良い関係を築き直すための「おまじない」だと自分はとらえます。

エヴァは呪いがないただのアニメになり、思い出になり、宇部新川駅を聖地にし故郷に恩返しするほど現実的な大人的振る舞いもするようになりました。

今は「さよなら」しても、また人生の様々な場面でエヴァに出会うこともあるでしょう。その時の自分とエヴァとの関係性はぐっと良いものになる予感がしています。

さようなら、そしてありがとうエヴァンゲリオン

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