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no title

海に来た。いつもの海だ。ベンチには老人が座っていてイヤホンからはGalileo Galileiの老人と海という曲が流れていた。ヘミングウェイは読んだことはない。つい3日前もこの海にやってきて名前さえ知らない花を愛でた。その時とさして景色は変わらず、でも連休が始まったからか心なしか人が多いように感じる。子どもたちの笑い声はなぜこうも心を豊かにしてくれるのだろうか。幸せの1ページというかなんというか、他人の幸せをお裾分けいただいている。

こうやって何も生み出さない休日を過ごすのが普通になってしまった。休日なんて何もしていないに等しいし仕事ばかりで傍から見たら僕の生活は楽しいものには見えないのだと思う。家族といても友人といても恋人といても僕自身が楽しい何かを提供できている気はしないしおそらくこれからもそれを提供することはないだろう。でもこんな生き方が嫌いというわけではないし、こういう生き方を約束されたのが僕だったりする。

思い返せば家族だってわかりやすい楽しさを提供する人たちではなかった。祖父だって祖母だって父も母も。家族旅行は人生で2回だけ。僕が家を出てから他所で家族と会うことも増えたけど今も昔も共働きのうちの家庭ではそれが当たり前だった。海も数えるくらいしか行っていないと思うしキャンプに行った記憶はない。釣りとドライブはよく行ったけど僕が中学生になって部活中心の生き方になったらそれもなくなった。でも逆に言うと一緒に過ごすだけで良かったそんな家族だったのかもしれない。

僕が提供するのも案外そういうものなのかもしれない。昔自分のことを醤油に例えたことがある。目立たないし主役ではないのだけどないと味が決まらない。ほんとそういう生き方してるなって。そんな生き方してる人なんていくらでもいるし代わりになる人はいくらでもいるんだけど、その時その時にそういう役割になれればいいのかな。一緒に過ごせるだけでいい、なんか美しい生き方だよな。

潮風を感じてなんかこんなことを考えて久しぶりに文章にしてみた。ゆっくりと流れる時間を過ごすのも年に数回しかないのだし、なんとか死守した休みくらいは笑顔でいたいな。

さて、母の日のプレゼントでも考えよう。

にゃーん。