左か、右か、影か、光か。
ふと、自分が悪かったのかと思うことがある。過去のどんなことに対しても。あの時ああしていれば何か変わったのだろうかというタラレバや、向こうが悪いのではなく自分が悪いんだという自傷まで。こうやって自分を悪く言うのは楽なのだ。目先の話、問題が解決してしまう。そう、考えることをやめられるのだ。
一般的な人間関係において、明確な責任の所在を求める必要はないだろう。犯罪は法が裁いてくれるし、組織の過失や損害はちゃんと責任の所在を明確にするルールがある。そこには人間の感情などは無視される乾いた世界があるのだ。家族や友人、恋人との間には余程のことがない限り、そんな乾いた世界は生じないはず、そこには感情があり、思惑があって、行為が伴う。
視点を変えればどちらも悪くないことが多い。アイツが悪いと声をあげても、案外そうでもないことばかり。何なら自分が悪いということだってある。どんなことも視点を変えれば世界が変わる。そしてなぜ彼がその手段を取ったのか、そんな想像、分析をすることだって私たちにはできてしまうのだ。我々の凝り固まった脳内をグニャグニャと柔らかくしてあげることはより良い人間関係への第一歩かもしれない。とにかく、どちらも悪くないのだ。だから人を責めるのはやめないか。
というのは自分自身へ言い聞かせる言葉だったりする。昔に比べて大分柔らかくなった。他人へも自分へも。自分自身の正当化に努め、アイツのせいでうまくいかないと周囲に愚痴をこぼしていた時期もあっただろう。逆に自分の至らぬ点を見つけたときはひたすらに自分自身を責めたりもしていたかもしれない。それでは苦しいだけだった。だから、少しずつ変えていった。よく言えば、大人になったのかもしれない。
さて、本項の最後に、どうしてこうも何かに理由を求めてしまうのだろうか、という問いを立て、理解できない事象を私たちが好まないから、理解できない事象が存在することは私たちの生存本能を刺激するから、というような答えを残して今日を終えたいと思う。
にゃーん。