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1-3 終わりの始まり2

 男性スタッフが去った後、私たちは顔を見合わせた。お互いなんとも言えない表情をしていたと思う。

 そして、二人とも犯人の名前を口に出す。

「シンイチ、、」

 シンイチは、私たちと同学年の男子。そして長老の息子だった。

 長老というのは表向きは神に任命された監督という触れ込みで、会衆を指導、監督する立場にある者たちのことを指した。 

 もしかすると現在では多少変化しているかもしれないが、当時では一つの会衆に少なくとも三人程度の長老を置くことが通例だった。

 長老にはそれぞれ、主宰監督、奉仕監督などの役目が割り当てられ、主宰監督になったものが実質会衆のトップであった。

 長老は誰でもなれるわけではなく、いくつかの段階を経なければならない。
 まず、当然のことながら、バプテスマ(洗礼)を受け正式にクリスチャンとなることから始まる。
 次に、長老より見どころのある模範的で有能なクリスチャンであると認めてもらい、新しい「奉仕の僕」としてものみの塔聖書冊子協会へ推薦してもらう。
  奉仕の僕となったら、次は一年程度自分をアピールして会衆の長老に認めてもらい、あとは奉仕の僕のときとほぼ同様となる。

 これらのプロセスは完全に人間の主観が入っているはずなのに、エホバの証人はこれを「神が任命された監督」などと言ってありがたがっていた。

 聖書の教えに正しく従うのであれば、長老は地位でもなんでもないはずなのだが、この長老という立場にある人間とその家族の多くは勘違いして偉ぶったり職権濫用する輩が多くいた。恐らくこの傾向は、現在においてもそのままなんだろうと思う。

 そして、シンイチも、自分が長老の息子であることを利用して偉そうにしていた。

 何をするにしても、何を言うにしても人を見下す態度が鼻につく。

 それだけの能力があればまだマシなのだが、お世辞にもそういう一面はもっていない。つまりただのイヤなヤツだった。某アニメのスネ夫の嫌なところだけを濃縮して純度100%にした感じ、と言えばしっくりくるかもしれない。

 恐らく、彼と彼の家族の取り巻き以外はそう評するだろう。

 実際、この時に一緒にいた友人も、シンイチに遭遇したことそのものを嫌がって、何度も何度も「オェー、気持ち悪い。」と言っていた。

 もちろん私も同じ気持ちだったので、このまま買い物を続ける気持ちにもなれなかった。二人とも少なからずショックを受けたというのもあったかもしれない。友人も私も何となく足が出口に向かう。

 結局、私たちはそのまま帰ることにした。

 スーパーを後にした帰り道、他愛のない話をしようと努力した。友人のいつも通りの心地よい反応が返っては来る。でも、何となくいつもと違う感じがした。フワフワした不思議な感じだった。
 途中で友人と別れ、一人で家まで歩く。身近にいる人間の犯罪行為のその瞬間に居合わせたショックもあったが、本当になんだか変な感じだった。

「ただいま」

 家に帰ると、母が待っていた。私をというより、私がしたであろう買い物の品を待っていた、というのが正確かもしれない。

「何かあったの?」

 さすがは親だ。子供の異変にはいち早く気づく。私はさっきのことを話した。そして、買い物ができなかったことを謝った。

「大変だったね。」

母親は一言だけそう言った。


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