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自分がイラッとするのを、深く丁寧に観る

最近、ものごとがタイムリーに起こる。

先日、家の前の通りで自転車に乗って走っていたら、道幅いっぱいに横に連なって歩く歩行者たちがいたので避けようとしていたらバランスを崩してよろめいた。そうしたら、反対方向から来る人に「チッ!」と舌打ちをされた。

ウチの近所は、住宅街だけれども大手の企業の本社がいくつかあり、通勤時間帯の歩道の混みようは尋常ではない。

いつもは、通勤時間帯を避けて外出をするようにしているが、どうしても仕方なく通らなくてはいけない時がある。

通勤の人集りは、ちょっとした脅威だ。
その流れと違う方向に行きたい時には、人が壁のように行く手を阻む。

そして通勤時間が決まっている人たちは、心に余裕がない人が多い。
私もフルタイム勤務をしていた頃は、いつもピリピリしていた。

最近は自分を整えることを一番にしてるから、人から舌打ちをされても昔ほどは傷つくことはないけれど、気持ちの良いものではない。

自分を整えて心のキャパシティを広くしておけば、人がどんな対応をしてこようともある程度は受け流せると思っていた。

でも今朝の真未さんのライブ配信を聴いていて、自分が傷ついたり腹が立ったりするのは、全部自分の思い込みの為せる技だったんだと気づいた。

今朝、真未さんがシェアしてくれたFacebookの投稿 ” 津留 晃一の世界 ” 


=== 加害者 ===

私達は、自分の否定するものによって

自らを傷つけています。

あなたが肯定するものは、あなたを優しく包み込み

あなたに力を与えてくれます。

あなたは
あなたの身のまわりに

起こってくる出来事の
ひとつ、ひとつを
丹念に観察し、

受け入れてゆくことによって
自分の本質へと帰っていきます。

この宇宙において

あなた自身を
傷つける事が出来るものは、

あたな自身の
考え方以外には存在しません。

あなたは、
あなたが「良くない」と
考えているものによってのみ

傷つきます。

あなたの心の中に

「良くない」
というものがなくなった時、

あなたは他人から、
そして環境から
傷つけられなくなります。

その時あなたは
自分自身のマスターと
なります。

人はいつもいつも、

あれは良くない、
これは良いと、

毎瞬毎瞬、
判断を下していますが、

自分が良くないと判断する
基準となっている
モノサシには気付きません。

ひとつ身近な話題で
お話しします。

「会社の社員旅行に行った時、
同室の人のいびきがうるさくて
眠れなかった」

と言う人がいました。

よくある日常会話だと思います。

取るに足らないささやかな問題で、

普段気にも止めない事だと
思いますが、

実はこんなささやかな問題の方が
ずっと多くのことに
気付けるのです。

痛みが小さく、

その現実の中に
のめり込まないで
済むからです。

その人は
いびきをかいている人から
迷惑を受けた被害者で、

いびきをかいた人が
加害者という事になりますが、

それは本当でしょうか?

もし人が
いびきの音によって
安眠が妨げられたというのなら、

電車の騒音の中で
うたた寝している人達は

一体どういう事に
なるでしょう

なぜ人のいびきは
嫌なのでしょうか?

「嫌なものは
嫌なのだから仕方ないだろう」

人は訳もわからず嫌なものを
「生理的に嫌なのだ」と
説明を付けて済ませてしまいます。

しかし、そうなると

あなたは自分ではその問題を
どうすることもできない

ということになってしまいます。

自分一人では解決できない。

他人の問題だと
考えざるを得なくなります。

ですから
あなたはその人から
遠ざかることに
意識が向かってしまいます。

嫌なものがあると、

あなたは他人から
分離せずにはいられないのです。

どうしてそれが嫌なのか、

そのことに
意識を向けてみてください。

「どうやって嫌いなものから
遠ざかるか」ではなく、

それが嫌いな理由を探してください。

嫌な理由は
あなたの内側にありますから、

それは、
あなた一人で解決がつきます。

嫌っている原因が
見つかったら、

あなたはもう二度と
逃げ出す必要がなくなるのです。

「それはその通りでしょう。

嫌いなものがなくなれば
一番いいに決まっている。

でもいびきなんて
誰でも嫌いでしょう。

別に僕だけが
嫌っているわけでは
ないじゃないですか」

という思いが
わいてくるのが
これまでの習慣でした。

我々はこれまで人と比較して、

他人の受け入れている考え方を
受け入れる

という癖が
染みついてしまっていて、

人と同じであるという
モノサシによって

自分の正しさを
はかり続けてきました。

他の人と同じ考え方であれば
正しいと判断し、

それ以上考えることは
なかったわけです。

ですからあなたは
あなたの親と同じ苦しみを
体験していながら、

そのことについてはそれで良いと

自分を
納得させ続けているわけです。

それは仕方ない事だと

自分を
コントロールしているわけです。

この世には
我慢しなければならない
こともあると錯覚しています。

そんな人が
大人であると
いわれてきたわけです。

あなたが他人のいびきが
嫌いなわけは、

いびきをかくのは
「良くないこと」だと

思っているからに
他なりません。

あなたは親から
こう言われ続けてきました。

「こんな夜中に
騒いではいけません。

近所迷惑でしょ。

静かにしなさい。

少しは人のことも
考えなさい」と。

素直な子供は

「そうか夜中に
大きな物音をたてることは
悪いことなのだ」と、

親の言葉を受け入れます。

両親に
生存権を握られている幼子は、

こうして
自分のしたくないことではなく、

親のしたいように
動き始めるわけです。

そして
「夜中に騒音をたてるのは
悪いことだ」

という固定的価値観が
出来上がります。

単にそれだけの事です。

「いびきがうるさくて
眠れなかった」
と言いますが、

私の妻は
電車に乗ったとたん、

こっくりこっくりと
居眠りを始めます。

それは電車の音が、

まるで子守歌でも
あるかのようです。

音量は、人のいびきよりも
電車の騒音の方が
明らかに上でしょう。

フルボリュームで
スピーカーを鳴らしている
ジャズ喫茶の中で、

うたた寝している光景も
何度も目撃しています。

うるさいから
眠れないというのは嘘です。

いびきが気になるのは
その騒音の故ではなく、

「夜中は静かであるべきだ」
とする

あなたの考えから
来るものです。

あなたの心には

「夜は静かにしないといけない」
という思いがあり、

その思い通りでないところに
あなたはストレスを感じます。

ストレスは
純粋な意識の葛藤作用です。

ですから思いがなければ

ストレスは
起こりようがないのです。

人はジャズ喫茶の中に
音を求めて入ります。

そこには音があって
当たり前なのです。

電車の中では
騒音は当たり前と
あなたは考えています。

あなたが当たり前と
考えているものとは、

あなたが
受け入れているものです。

あなたが受け入れたものは、

もはやあなたの外ではなく、
あなたと一体です。

あなたは
あなたが一体となった
ものから

被害を受けることは
ありません。

どんな騒音も、

その存在を
受け入れているものは

あなたと
分離していないのです。

あなた自身と同化した、

あなた自身の一部である
音の中で、

あなたは
すやすやと安らかな眠りに
落ちて行くわけです。

どうしていびきと
同化できないのでしょうか。

それはあなたが
それを良くないものと
考えているからです。

「良くない」と思ったとき、

あなたは、
そのものから分離します。

あなたが
分離したものは
あなたに
影響力を持ち始めます。

宇宙の創造主である
あなたから分離したものは

あなたと
同じ力を持っているからです。

「夜は静かに
しなければいけない」

という考え方を
受け入れているあなたは、

その考え方と一体です。

こうしてあなたは
夜に騒音をたてるものに

生理的嫌悪感を
感じるように
なっているのです。

「あなたが
受け入れているものは
あなたの味方となり、

あなたが
拒否しているものが
あなたの敵となります。

夜中に大騒ぎする
あなたのお子さんは、

あなたの固定概念を
ぶちこわすために
この地球へ降りてきた

尊い光の存在だと
考えてみてはどうでしょう。

あなたが生理的に
嫌っているどんなものも、

このいびきと同じです。

あなたに
生理的に嫌いな人が
いるとしたら

どうぞ自分の内側に入り、

自分のハイヤーセルフに
質問してください。

「私が彼女(彼)を
嫌っている原因は
何でしょうか」と。

もし、「意地悪」
という思いが浮かんできたら、

それが原因です。

あなたは
意地悪な人が
嫌いなのです。

それは意地の悪いのは
良くない
と思っているからです。

私も含めて
人はみな意地悪です。

意地悪でも
いいじゃないですか。

どうぞ意地悪な自分を
許してあげてください。

意地悪でも
いいじゃないかと思えた時、

あなたはその価値観の真ん中、

ニュートラルな位置に
立っているといえるでしょう。

あなたはずる賢い人が
嫌いかもしれません。

自分本位な人が
許せない人かもしれません。

そして自分の狡猾さに
気付いたとき、

あなたはショックを受け
落ち込みます。

そんなことにならないよう、

あたなのエゴは
いつも実に巧みに
言い訳を思いつきます。

「私は
あれもしなければいけないし、

これもしなければいけない、
とても忙しくて
私には出来ないのだと」と。

でもエゴは他人のために、

この巧みが自己弁護能力を
決して使おうとはしません。

だから人は依然として
嫌いな人を避け続け
なければならないのです。

あなたは自分勝手な人が
許せない人ではありません。

よく考えてみれば
わかることです。

誰だって
自分勝手に
ふるまいたいのです。

それが
自由を求める人の
本質なのですから。

でもあなたは
子供の頃、両親に

そして学校の先生に
こういわれ続けてきました。

「わがままはいけないよ。
自分勝手にしてはいけません」と。

そしてあなたは
その考えを受け入れ、

社会の常識に
同化してきました。

生まれたままの
あなたのあるべき本質から
ずれてしまいました。

それがあなたの
根源的ストレスの源です。

あなたはすでに
身の内にストレスの元凶を
抱え込んでいます。

「・・・はいけない」
とする考え方のことです。

宇宙には
良いも悪いも
ありません。

宇宙は
ただあるだけです。

あなたは
自由そのものです。

それを犯すことが出来るのは
あなた自身の考え方

以外にはありません。

あなたが生まれてから、

社会によって渡されてきた
人間の固定的価値観を
手放す時がやってきました。

意地悪いでいいのです。

自分勝手でいいのです。

それはリンゴの
薄い皮のようなものなのですから

この世は
幻影の世界なのですから。

あなたは
皮をまとった純粋な
リンゴそのものです。

皮によって
中身が犯されることは
ありません。

そんなニュートラルな人だけが
宇宙の純粋な鏡として、

意地悪な人にも、

身勝手な人にも
変わることのない

豊かな愛情を
表現し始めることでしょう。

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