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人間だもの

この前、真未さんがオススメしていた本をようやく読んだ。
インスタのライブ配信で解説を聴いて買ったものの、ハウツー本っぽい表紙が進んで開こうという気になれなかった。

でも『嫉妬・劣等感を一瞬で消す方法』大嶋 信頼著 を読んで、いろんなことが腑に落ちてスッキリした。

人間は生まれ持ってなのか成長する過程でなのか、いろんな嫉妬や劣等感を持ってしまい、外部の刺激によってそれらが自動で発動してしまう。

メンタルケアのセッションなどで大きなトラウマは対処できるけれど、自動的に身体が反応してしまうことなどたくさんあって全部対応できない。

私もプチ鬱になってからヨガ哲学や陰陽五行、スピリチュアルなどいろいろ学んできたけれど、未だに電車で横入りされるとめちゃめちゃ怒りが湧くし、娘に当たられるとイライラしてしまう。

この本を読んで、自分の結局は人間なのだ、こんな小さい自分も受け入れようと思えるようになった。

学びを深めれば深めるほど、自分が目指すものと現在の自分の差に愕然とするときがある。
でも、人間として生きている以上、みんながみんな悟りを得られなくてもいいんだし、自分の人生を自分らしく生きられたらそれでいいよね、と思えた。

そんな折、Facebook でフォローしている ”津留 晃一 の世界” でこのメッセージが私の中に響いた。

=== 内部対立 ===

私達は論理的思考世界に住みながらも、

結構矛盾する対立した考え方を
知らないうちに受け入れて使っています。

「他人には親切に」と思っているその人が
「家族を大切に」と思っています。

そんな人が
「家族と友達のどちらが大切なの」と

家族に言われると困ってしまいます。

「こんなにボランティアだけ
やっていていいのだろうか、

もう少し家族の面倒も見なくては
いけないのではないだろうか?」

などと、

二つの対立する考え方が
ムクムクと心の中から上がってきます。

こんな時、誰からも
問われているわけではないのに、

自分のしている事に対する
正当性の主張を
自我がつぶやき始めます。

自分の中に後ろめたさがあり、

その後ろめたさを
うち消す為にです。

自分の中にある
対立する二つの考え方が、

外面世界に投影されて
「どちらが大切なの」

という言葉を
引っぱっているにすぎません。

「友達を思いやれ」と言いながら
「友達には負けるな」と言います。

そしてその二つの考えが
矛盾していない
という論理を構築しています。

今あなたが、それは矛盾していない
という理屈を

流ちょうに説明できるとしたら、

それは心のどこかで実際は矛盾を
感じているからなのかもしれません。

私が社長をやっていたときも
「売上げを上げろ」と言いながら、

「客を大切にしろ」と
絶えず社員に言ってきました。

そして売上げを上げる事を
考えながら、

客の利益を考えるとは
どういう事なのかを
何度も社員に説明していました。

今考えてみればわかるのですが、

わざわざ私が説明したくなるところ、
強調して説明していたところ
(自社の利益と客の利益)は、

私自身の内部に
矛盾を感じていたからに他なりません。

私達は、実際は相矛盾する考え方を
たくさん受け入れてしまっている
にもかかわらず、

それが余りに日常的すぎて、

ここが論理的整合性のない
矛盾した世界である
という事実に

気付かないまま暮らしています。

そしてこの心の内部矛盾が
外面世界に投影され、

複雑で対立的な
人間関係を表出させています。

自然界を
丹念に眺めてみれば、

この世界が論理で説明のつく
世界でない事は
すぐにわかるはずです。

「今、ここを生きよ」
と言われても、

「ここ」を空間的場所の事
としてしか考えられません。

証明の世界、立証できる事だけが
正しいと考える、

思考世界に
意識が落ち込んでいるからです。

論理で裏打ちされた
世界での体験が
どういった感覚をもたらすのか、

そんな体験を望んだ
我々の集合意識は、

論理を好む
男性偏重社会を創り出しました。

それがこの現代文明社会です。

論理的に証明可能な事だけを
正しいと信じる、

ちっぽけな世界で
人類はどんな体験を果たすのか、

我々は見事に
その複雑な成果を勝ち取りました。

広大無辺な神秘の世界から、

見事に偏狭な証明世界を
築き上げました。

今地球は証明可能な世界観から、

純粋な体験世界へと
脱皮しようとしています。

ちょうど芋虫が蝶に変身するように。

そしてこの話を
信じる必要はありません。

証明など出来ないのですから。

証明できない時はどうするか、

我々は数学等で慣れ親しんできた
仮説を立てるという方法を
採ることが出来ます。

「初め私は、 宇宙にただ一つの『私』
という意識であった」と仮定します。

これは仮定ですから
全く信じる必要はありません。

その仮定から
思考を展開してみて下さい。

その観点から
世界を眺めてみる訳です。

ありとあらゆる現実を、

細やかに、注意深く、
丹念に、より深く。

私は初めに
「あなたは無限です」
と言われました。

会社を倒産させ全てを失ったと
思い込んでいた私に向かってです。

どん底だった私は
「そんな馬鹿な」と

考えながらも
その言葉を信じてみようと
思いました。

そのたった一言から始まりました。

「私が無限であるという事は、
私は全てという事だ」。

「私が全てという事は、
私が神だという事だ」。

「私が神だという事は、
倒産は私が仕組んだという事だ」。

「私が仕組んだという事は、
私がそれを知りたかったという事だ」。

「何だ、これこそ
私がしたかった事なのか、

そうならば
私は今『思い通り』に生きている
ということではないか」。

人間の苦しみは、
その原因を調べてみると

全てがたったひとつに帰結します。

それは自分の「思い通り」でない
ということだけです。

実に単純な事です。

5万人から愛されたとしても、
たった一人、

自分が愛されたいと思っている人が
思い通りにならないといって、

身を投げたタレントがいました。

仏陀は

「母の命さえ救えないなんて、

王位という最高の権限・権力に
どんな意味があるというのだろうか」

と出家してしまいました。

9999の望みが叶ったところで、

たった一つが
思い通りに行かなければ

自我にとっては
その全てにおいて不幸と感じます。

「お前はこんなに
満たされているというのに、

なんて欲張りなのんだ」と
人を咎めてみても仕方ありません。

人間とはそういうものなのですから。

「私が神であるという事は、

私は何かを成し遂げる為に
わざわざ来るはずがない。

体験こそ私がしたかった事なのだ。

だったら今体験している私は

全てが『思い通り』
という事ではないか。

私はこれまで何かを
『する』事を目的としてきたが、

これからは『体験』を
私の目的としよう。

起きてくる事こそ私が、
体験したかった事なのだから。

こう思えるようになって以来、

私の世界から
「思い通り」でない事が
消えてしまいました。

想いを遂げて
思い通りにして行くよりも、

ずっと容易に
「思い通り」を達成しました。

この世界を、体験の世界という窓を
通して見るようにしただけで
心は安らぎ、静寂を得ました。

心の揺らぎが
瞬間の範囲以内に
治まるようになりました。

これは「私が無限である」
と言う単純な考え方を、

そうだと仮定したことにより
起こってきたものです。

もちろん今でも
私が神であるか否か、

そんな事は
証明のしようもありません。

ですからそれが
本当かどうかはわかりません。

本当か嘘かなど決めつけなくても
不安はなくなり

安らぎを得られる事は事実です。

ここは全てが
検証不可能な世界です。

自分が何者で、
今どこに居るのかさえ判りません。

しかし現代人は
それを証明しようと考えました。

人類自我の挑戦です。

「その課程を体験するため」

これが初めの
目的であったにもかかわらず、

人類は「結果を出す」事を
目的として進んでいるようです。

微妙なスリ変わりですが、

これこそ苦しみの源です。

自分の始めた目的を
忘れてしまっているのですから。

人類は癌を
克服できると信じました。

宇宙の創造の秘密が
解き明かされると信じました。

そしてもうじき人類は知るでしょう。

解らないという事を通して、

思考世界に
閉じこめられていた意識が、

この思考空間から体験空間へと
意識を飛翔させることでしょう。

ここが体験の為の
エデンの園であったことに
気付くでしょう。

正しいか間違いか、

結論を出そうとする自分の姿勢を
変えてみる気はありませんか。

良いか悪いか、

そんな事は決めなくても
何ら困る事など起こりません。

決めようとするのは、

決めないと困った事になると
信じているからです。

自分が孤立した存在だと
思い込んでいるからです。

私達は部分であり全体です。

決して
孤立した存在ではありません。

解らない事は
あなたが決める必要はありません。

結果を出すという目的から、

その課程を体験するという目的に
切り替えてみませんか。

今あなたの目の前にある、

他人との対立は、
あなたの心の中の内部対立に過ぎません。

自分の中で争っている
相対立する「考え方」という

二つのミニ自我を発見して下さい。

発見できれば
その考え方を解除することが
出来ますし、

その対立する
二つの考え方を
さらに突き詰めてみて、

思考の外へ
飛び出してしまう事も可能です。

私は考えることが大好きでしたから、

考えて、考えて、考えて、
頭がオーバーヒートを起こし、

意識が思考の外へ
飛び出してしまいました。

どうしても、どうしても
解らなかったからです。

その結果、解ったわけです。

ここが体験の世界であった事が。

それが真実の世界で、

今まで思考の世界の中に
意識が落ち込んでいただけ
であった事が。

「あっちを立てればこっち立たず」、

本当でしょうか。

この二極的相対世界では
思考はここで止まってしまいます。

子供が学校へ行きたくないと言い、

親は学校だけは行ってくれと言う。

互いが自分の思いを遂げようとすると、

親子の仲が裂けてきます。

自分を押さえれば
心の中に歪みを作ります。

こんなとき正しさは無力です。

正しい選択が出来ますか。

親は子供の考えに従うのは簡単だが、

それでは余りに
無責任すぎると考えます。

子供の将来はどうなるのかと
悩みがつきまといます。

意識を
この正邪の世界から出して、

体験という窓から
この状況を覗いてみれば

面白い風景が見えてきます。

素晴らしい劇が
幕を切ったように
見えてくる事でしょう。

思考の世界へ
意識を落とし込んでしまったままでは、

この現実に正解はありません。

早く結論を出そうとする
自分の思考パターンに気付いて下さい。

結論があなたを
幸せにするわけではありません。

「決める必要なんかない」
という言葉を

思い出してみて下さい。

ここは
論理の世界ではないのですから。

あなたが不利になると
信じ込んでいるだけで、

本当にそうかどうか
解らないのです。

私はいつも、いつも
考えてきました。

何が正しいのか。

そして正しさを
選び取ろうと生きてきました。

正しいものがあると
信じ込んでいたからです。

私の頭はいつも
何が正しいのかを決めようと
絶えず忙しく働き続けていました。

「正しい」「間違い」はない、

と頭が理解した後もなおです。

頭ではわかっていながら、
やっている事は

いつも知らず知らずのうちに
何が正しいのかを探しています。

ふと気付くとまたやっています。

自分の中にいるもう一人が。

潜在意識の中にしまい込んだ
プログラムに基づいて、

すぐにロボット機能が
活躍を始めます。

私達が無意識のうちに
呼吸をしているように、

無意識のうちに
心は何が正しいのかを決めようと

一人で働いています。

このロボット機能を解除できるのは
あなたの表面意識です。

このロボットの再プログラミングは、

意識的反復操作によって可能です。

「あっ、またか」と
咎める必要はありません。

単純に繰り返して下さい

「何が正しいのか
決める必要なんかない」

という言葉を。

考えて、考えて行動する人は、

自分の行動に
自信を持っています。

自分が間違ってないと
信じられるからです。

正しい人生を
送りたいと考えている人は、

常に自分が間違えていないかを
チェックし続けています。

いつも意識して、意識して
考え抜いて出した結論ほど、

自我は
その考えに対抗する意見には
従えなくなってしまいます。

相手が間違っているとしか
おもえないからです。

自分が正しいのであれば
相手は間違っているに決まっている

と発想するからです。

特に意見の対立がある場合には
さらに深く考えます。

どちらが正しいのかを。

そして考え抜いて出した結論ほど
修正が難しくなります。

あなたの目の前にある
鏡からのメッセージが
受け取りにくくなります。

登校拒否のお子さんを持つ親は
さらに難しいものです。

自分が上から見てしまうからです。

この「親」という観点から
ものを見る場合、

それは「自分は正しい」
という観点から

ものを見ている事と同じになります。

ですからお前は間違っている
という観点から話をします。

相手を説得しようとしているのが
その何よりの証拠です。

どうぞ気付いて下さい。

「相手に伝えたい」と思う心は、

「自分が正しい」という
観点からの発想である事を。

「相手に言ってあげたい」
と思う優しい心も

「私は間違っていない」という
観点から発しているのだ

という事をです。

あなたが「自分は正しい」
の観点に立った時、

相手も「自分は正しい」
の観点から、 発想を始めます。

こうして対立が生まれます。

あなたが正しさの立場を
離れない限り、

対立相手もそこを動きません。

よく勉強した人ほど
この落とし穴にはまります。

考えぬいたぶん、
この穴から出づらくなるわけです。

この宇宙は反転した世界である
という法則を思い出して下さい。

あなたが反転しない限り、

この穴からは出られません。

自分の中から出て下さい。

今その体験をしている人に
どうして間違っていると
言えるのでしょう。

親が子を心配する純粋な親心が、

どうして子供に
受け入れられないのでしょうか。

自分の心の中に一体どんな
対立関係があるというのでしょうか。

その謎を解いてみませんか。

あなたが
子供にわかって欲しいと
思っている分だけ、

あなたの親である宇宙も
子であるあなたに

わかって欲しいという思いを
出しているのかもしれません。

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