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"好き" にくっついているモノ

最近、『サピエンス全史』下巻を読み途中でほっぽらかしていたので、続きを読み始めた。

そうしたら、夫が横から取っていって先に読み終えた…

私は哲学だとか宗教だとか、スピリチュアルの学びをしている。

15年前に娘を産んでから、自分の未来のビジョンが崩れると共に、自分という人間がなんなのか分からなくなったから。

本を読んで、瞑想して、身体も整えている。

そのおかげでなのか、最近は穏やかに過ごしている。
そんな中でも、なんだかんだあるわけで〜

その日は、珍しく夫が午前中から手が空いたので、「一緒に散歩に行こう♪」と言ってきた。

私は、月水金は9時半から10時半の間、真未さんのインスタライブ配信を聞いている。

だから、夫との散歩はどうしようかな?って迷った。
真未さんのインスタライブは、アーカイブも残るから後からでも聞ける。

だけど、私はコメントして真未さんと交流するのが好きだから、オンタイムでいつも聞いている。

でも、秋晴れの美しい午前中。日本の秋は短いから貴重な季節だ。

少しの間、私は迷った。

大好きな真未さんのライブ配信と、短い秋の清々しさを味うのと、どうしよう〜

結局、私は散歩を選んだんだけど、迷っている間の私の中では真未さんのライブ配信への執着と、大好きなものに縛られる意識を感じた。

そのいろんな意識が私の中でカオスになっている状態に気づけたのは、散歩から帰ってから聞いた真未さんのライブ配信で、雲黒斎さんの『あの世に聞いたこの世の仕組み』の学びの内容を聞いたからだ。

その本のどこかに書いてあったことではなくて、たぶん真未さんが本の内容からいろんな話しに派生していった内容だと思う。

物事にはいい面と悪い面どちらかしかないんじゃなくて、どっちもあって、どこにフォーカスするかだよねぇみたいなことをお話されていて、私の頭の中のカオス状態からその構成しているモノを観ることができた。

私もそうだけれど、人間って複雑なものを理解するのがちょっと苦手な傾向があるから、単純化して理解しようとする。

だから、あの人があんなこと言っていたから、”あの人は良くない人だ” と認識しちゃう。

自分が少しの時間に感じた表面状のことで、その人のすべてを決めつけてしまったり。

私の中の、”大好き” にも、好きすぎて縛られる。好きすぎてそれに固執する、ってことがあるのを見ないようにしちゃう。

カオスになっちゃっている自分の中を丁寧にみることが、まだまだ苦手な私だから、ちょっとずつ気づけるように祈っていこう🌿





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