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私の怒りのバックグラウンド

この間の夏至の日に、叔母が急になくなった。
母の一番上の姉で85歳だった。

いつも笑顔の絶えない人で、みんなから好かれていた。
私もそれほど頻繁に会ってはいなかったが、私が小さい頃に叔母の家に遊びに行くと大きなおはぎを作って振る舞ってくれたのが思い出として残っている。

” 死 ” というものは、みなが避けたがるものだ。
確かに、今まで生きていた人が死んで動かなくなるというのは衝撃的だ。

でも生き物は皆、産まれたらいつかは死ぬ。
現代社会では寿命がとても長くなっているから、死ぬことに接する機会が少なくなっていて、死ぬことが恐ろしいことになっているのだろうか。

仏教やキリスト教では、肉体は死んでも魂は死なないと言われている。
それでも、自分の記憶の中で体験したことがない ” 死 ” というものは恐ろしいと感じてしまうのだろう。

叔母のお通やに行って、お顔に触らせてもらった。
冷たくはなっているけれど、そこにはまだ叔母の肉体があった。

お焼香を済ませてから、久しぶりにあう親族とお茶を飲みながら話をした。
6年前の叔父の葬儀以来だったので、みんなと亡き叔母の思い出話や、子どものことなどを話した。

母の実家は、あまり裕福とはいえない家庭だったので、叔父叔母もそれほど教育を受けていない。

その為なのか、時代背景なのか、人を見た目で判断して批判する叔母がいて、久しぶりに驚いた。

その批判は私に向けられたものではなかったけれど、自分の身体が萎縮する嫌な感覚があった。

彼女は、その批判をなんの躊躇もなく口にした。
彼女は、それが相手を傷つけることだという認識がまったくない。

私は、彼女が悪い人ではないことを知っている。
それでも、人の見た目を親族のいる前で批判するのは気持ちの良いものではない。

私も地域のコミュニティーに参加すると、年齢層が高いのと男性が大半を占めているので、女性蔑視されることがある。

会社組織に属している頃は、そういう扱いをされたことがほぼなかったので、とても不快だった。

でも昔からあるコミュニティーでは古い慣習が継承されているので、当人たちはそれが相手を傷つけている認識はまったくない。

私が、女性であることで押し付けられる役わりに憤るのは、テレビで放映される過去の女性たちが男女平等の権利を勝ち取ってきたドキュメンタリーなどを見た影響だ。

私が社会に出たころには、男女雇用機会均等法が施行されて女性も深夜勤務ができるようになっていたから、女性だという理由で仕事上の苦渋をなめた経験は私自身はない。

それでも、歴史の本を読んだりマスコミの番組を見たりして、昔の女性たちが戦うことで女性の権利を獲得してきたことを知っているから、古い慣習を引きずる男性に合うと無性に肚が立つ。

私が社会人になった頃は、子どもを産んでもキャリアを諦めない女性が世の中でもてはやされていたから、私も自分なりに努力を続けた。

世間の平均よりも、IT業界の景気が良かったせいもあり高い年収を得ていたにも関わらず、女性であるというだけで大して稼げないんだろうと私に言ってくる友達の夫がいて、絶対にあなたより私の方が稼いでいる!と言いたいのをぐっと堪えた。

お金をたくさん稼ぐ人が偉いわけではないけれど、資本主義社会でお金はエネルギーだから、ある程度は必要だ。

差別というのは、相手を知らないからこそ憶測やイメージで相手を自分とは違うものと認識することではないか。

見慣れないから、昔から世間で持たれているイメージで判断する。
本当に自分がそう思っているのかも分かっていない。

外側からの情報ではなく、自分をオープンにして相手を感じていきたいと私は改めて思った。


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