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モデル業をポジティブに

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今までモデル業をしてきて悩み、思考錯誤してきたことをシェアします。同じモデルをしている人には聞けない…自分自身、そんな悩みをたくさん抱えてきました。だからこそそういう経験をシェア…
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#海外でモデルになる

モデルになって捨てたもの

求められる場所で頑張りなさい。この言葉の意味を、モデルになってから身を以て実感しました。 そもそもモデルを目指そうと思った当初は、パリコレに出たい!ただその一心で頑張っていたように思います。けれど私のモデル人生では、意識すればするほど「パリコレ」の文字は通り過ぎて行きました。 ◆1度目のチャンスはNYで私が初めてその舞台に近づいたのは、NYコレクションの最中。NYの街中を1日10本ものキャスティングを抱えて歩き回る中、事務所から突然「今からここに行ってほしい」という連絡を

モデルになるまで、8年。

「…それで方向転換してモデルになろうと思ったんですよ。」 そう話したときに言われた言葉がある。 「それでモデルになれちゃうから凄い。」 確かに。言われてみればそうかもしれません。 そもそもモデル業がどういうものか、当時目指し始めたときには全くもってわかっていなかったのですが、知らないからこそ夢中になって頑張れたのかも。いい意味で、期待がありませんでした。ただ一度やった仕事が楽しかったからまたやってみたい、そんな気持ちの延長線上で始まったモデル人生。 しかし振り返ってみれ

とても小さくて、物凄く大きな一歩

私がモデルとして初めて海外に挑戦したのは、シンガポール…ではなくて、実はパリだったのかもしれません。 かもしれないと書いたのは、まだモデルとしてきちんと活動できていなかった学生のときに、度胸試しとして行ったものだからです。たった8日間。けれどあのときに起こした行動が、モデルとしての小さな一歩であるとともに、大きな意味を持ったものだったのではないかと思います。当時の情景は、今でも私の脳裏に焼きついています。 ◆何一つ準備せず飛び込んだモデルをやるならパリコレ。始めた当初に私

NOと言う勇気を持つ

AMIは写真が撮れない モデル事務所のオーディションに受かり、所属時の面談で言われた言葉は今でも覚えています。 悔しい…そう思うや否や、負けず嫌いな私のやる気に火がつきました。そこから、怒涛の写真作りが始まります。 今回は、そんな新人時代から取り組んでいるテストシュートについて、撮られる技術向上のためにやっていたこと、取り組む中で感じた不安や恐怖、今まさに感じていることについてお話しします。 ◆真似したものに価値はある?テストシュートをするにあたってまず最初にしたのは

モデルが実践する、声なきコミュニケーション

一見すると個人が目立ちがちなモデルの仕事ですが、実はチームワーク必須の職業。撮影クルーと協力するのはもちろん、複数人で撮影するときには同業種であるモデルとも。 しかし、撮影中にモデルが声を発することはほとんどありません。大抵は無言でポージングをします(稀に叫びながらの撮影もありますが笑。気になる方はnote「誰よりも前に出ることの大切さ」をご覧ください)。 その中で、一緒にいるモデルとどのようにコミュニケーションを図るのか…それを学んだのはまだモデルを始める以前、私が大学生

自分じゃない自分になりたかった

モデルにとって嬉しい写真とは、やはり自分の顔がしっかり出て格好良く写っているものだと思っていました。顔が出てなくて誰かわからない写真なんて、撮っても何の得にもならない…全然嬉しくない…。 そんな気持ちは、あることをきっかけに変化していきました。その変化によって、現場での妙な緊張感がなくなり、仕事の幅が広がっていった…今回はそんなお話です。 ◆顔の写りを気にして、一喜一憂する日々新人の頃は、BOOKに自分の体型や顔立ちがはっきりわかる写真を入れたい・入れなければならないので

自分を止めているのは自分

やりたいことがあるなら、ときには周りに反対されても、一度は自分の意思に従ってやってみる。そのことで得られるものが必ずあると思っています。 「モデルとしてどこか海外でやってみたい」始めた頃に漠然と抱いていた想いは、幸せなことにNYの地で叶うこととなりました。 しかし、叶ったと同時に待っていたのは、選択の日々。毎日が決断の連続でした。果たしてこの決断は合っているのか、悩みすぎて辛くなることもありました。今回はその中でも、日本とNYを行き来していたことで起きた、特に印象に残ってい

他人が気にならなくなったとき

私がnoteを書いているのは、モデルをやっている人に「そんなことで落ち込まなくていいんだよ。自信を無くさなくていいんだよ」と一言声を掛けたかったことに端を発しています。 こんなことを言ったら、上から目線に思われるかもしれない、、そんなことが頭に過りつつ、これが私の本心でした。 私自身モデルとして過ごしていく中で、何度も自信がなくなるような出来事を経験しました。そんなときには、周囲の人が話してくれる体験談や、そこから紡ぎ出される言葉にいつも助けられていました。お陰で「そこまで

どんなに落ちても、決してチャンスは無くならない

モデルになる以前、そしてモデルになってからもしばらくは、生活のために様々なアルバイトを経験しました。 中でも、学生時代に3年間アパレルブランドで働いていたことは特に記憶に残っています。日々こなす業務や時々起こるハプニングに、泣いたり笑ったり、厳しくも明るいチームに囲まれた、最高の職場でした。 程なくして私はモデルを目指すようになり、職場を辞め、今の事務所に所属しました。 新人として様々なブランドのオーディションを受ける中で、いつしか自分にとって”絶対に叶えたい”と思う大

とことん楽しむと世界は広がっていく

NYで初めて髪色を染めたことがありました。染めても茶髪くらいしか経験のなかった私が突然の、レインボーカラー。今回はそんな貴重な髪色になって過ごした数日間のお話です。 ◆レインボーカラーのマッシュルームヘアカラーをした理由は、お仕事でした。内容は、NYでは名の通ったヘアサロンの広告撮影。サロンに所属する各ヘアスタイリストに1人ずつモデルが割り当てられるというスタイルで、私の担当はオーストラリア人の陽気な男性でした。 彼との初顔合わせは撮影の2日前。この日は準備日として設けら

眉毛がもたせてくれた自信

何か1点、自信を持てるものがあれば変わってくる。私にそれをもたらしてくれたのは、眉でした。ブリーチして黒からハイトーンの金色へ、いわゆる"眉なし"状態の時期がありました。今回はそのときのお話です。 ◆きっかけは海外での作品撮り実は、日本でモデルの眉をブリーチすることは、気軽にはできないと聞きます。 理由としては、肌の弱いモデルだと荒れてしまったり、なんとブリーチを施した人が元の色に戻すのを忘れて帰ってしまったり、そうかと思えばモデル自身がその状態を気に入ってしまい「戻さなく

1枚の写真がモデル人生を変える

事務所に入ってモデルをするにあたり、まずはじめに直面した大きな壁は、”写真が撮れない”ことでした。正確に言うと、撮ってもらっても”いい写真”と呼ばれるものが少なかったということです。それは私自身の表現力の無さや、モデルとしては不十分だった体型が原因だったと思います。 今回はそんな新人時代の話とともに、モデルにとっての写真の重要性、そして私自身が海外に挑戦するまでの経緯についてお話しします。 ◆写真が撮れない現在の事務所サトルジャパンに所属した際、私が真っ先に言われた言葉。

24歳でモデルになる

こんにちは。東京とNYを拠点に活動している鈴木亜美です。一昨日からnoteを始めました。2回目となる今回は、モデルを目指した理由、そしてどのように事務所選びをしたかについてお話しします。 ◆モデルは目指していなかった私がモデルになったのは、24歳です。 仕事に就くには特に遅くないのかもしれませんが、モデル業界の人が聞いたら、この年齢には驚くかもしれません。 当時、モデルを始めるのは10代が一般的とされていました。また、私が目指そうとしていたパリコレ等を歩くコレクションモ

オーディションで落ちても否定された気持ちにならない、めげない

モデルになったら誰しもが経験する、オーディション。仕事を得るためにその都度受け、合否の判断を下されます。その数、年間で数十本〜数百本。 例えるなら、学生時代に経験したあの「入試」を毎回受けているようなもの。1本のオーディションに多大なプレッシャーがかかります。 そんなオーディション、行くもの全てに受かるなんてことは、まずありえません。どこかで必ず落ちることになります。 その落ちたときの気持ちといったら…自分という人間を否定されたような気になることも。がっかりすることはもち