はいからさんだった祖母を訪ねて〜山口・下関の旅〜
今回は、「性産業で働いた私の人間学」をお休みして、夏の思い出を書きました。
残暑も厳しい8月下旬、私はあることがきっかけで、祖母が学生時代を過ごした山口は下関へ行くことを思い立った。
8月25日、私は飛行機で山口へ行く予定を立てていた。しかし、気候の状況が悪く、何度もアプリへ通知が届く。内容はこうだ。「山口宇部空港は雷雲ため、飛行機が着陸できない可能性があります。その場合、福岡空港への着陸を予定しております」
え、福岡空港?それはまいった!新山口までどうやっていけばいいんだろう。時間は??
土地勘の全くない私は、さっそく不安が押し寄せてきた。
なんてことはない。福岡から新幹線ですぐだった。後から知ったことだが。そもそも天候で止むを得ず福岡へ行くのだから、そこはきちんと新山口へのバスなり、案内してもらえるだろう。旅慣れない人はこれだから困る。
飛行機は定刻に離陸したが、やはり機長のアナウンスは福岡空港に着陸の可能性があると言っていた。
しかし、いっこうに空の色は変わることなく明るかった。
よし、このまま行けば福岡ではなく、宇部に行ける!
その後変更の機内アナウンスもなく、
「まもなく飛行機は山口宇部空港へと到着いたします」とのアナウンス。
私は山口県へ降り立った。
相変わらず思いつきも甚だしい。まったく知らない土地へ一人で旅に出るなんて、アメリカへ行った時以来だろう。いや、少なからずアメリカはホストファミリーがいたから行けた。
だが今回は別だ。誰が待っていてくれるわけでもなく、案内してくれるわけでもない。
下関も、2、3日前に地図で場所がわかったくらいだ。
山口県に来た私の目的。それは、祖母が学生時代を過ごした場所へ訪れること。
祖母は明治37年生まれ。小倉市宇佐が実家だった。梅光女学院へは寄宿舎へ入っていた。それには理由があった。
小倉の実家はお寺だった。後妻さんとうまくいっていなかったという。そこで家を出たらしい。
梅光はミッションスクールだったため、祖母が得意としていたのはやはりピアノと英語だった。祖母はよく私に話していた。
「私にピアノを教えてくれていたのは、ミス・ブースという先生で、とても厳しい先生だったのよ。よく間違えると手を叩かれたわ」
そんな祖母は、楽譜なしで、90歳を過ぎてもピアノを弾いていた。曲目はわからない。おそらく練習曲だったのだろう。
祖父とは教会で知り合い結婚した。それからというもの、祖父の仕事の関係で世田谷区へ引っ越し、オルガンを教える先生の代理の仕事をしていた、いずれ千葉の西船橋へ移り住んだ。
私は今回、梅光女学院(当時)を訪ねるべく、東京にいるうちに学校へ電話をかけておこうと思った。出来れば当時の校舎や祖母の写真があれば見たかったからだ。
早速、「梅光学院大学」に電話をかけた。
「はい、梅光学院大学です」
「あの、私ライターをしている福田と申しますけれども、お尋ねしたいことがあり、お電話させていただきました。お時間よろしいでしょうか」
「はい、どのようなご用件ですか」
「私の祖母が梅光女学院を卒業しておりましして、もう120年昔の話ですが、もし当時の資料や写真などが残っていたら、見せていただきたいと思いまして……」
「総務に聞かないとわからないのでね、一旦切らせていただいて、折り返しお電話させていただきます」
「あ、そうですか。ではよろしくお願いします」
「フリーのライターさんですか?」
「はいそうです」
「では折り返しお電話致します」
こんなやり取りをした。
なぜ、フリーのライターと聞いたのだろう。私はちょっと不安になった。
数分後、電話がかかってきた。
「お電話いただいた件なのですが、上のものにも確認を取ったところ、資料や写真はこちらには残っていなくて、お見せすることができないのですが」
えーっ! それはがっかり。
「そうですか……」
そのような会話で終わってしまった。校舎の写真が見たかった。出来れば、祖母の写真も。
でも資料がないなんて、本当なのだろうか。歴史ある学校なのに。なんだか疑心暗鬼に陥ってきてしまった。私の悪い癖だ。ライターと名乗らなければよかったのだろうか。など考えてしまった。
でも、行けば「何か」があるかも知れない。なぜか見知らぬ場所に惹かれるものがあった。
そんなこんなで、私はいま梅光学院大学に向かっている。
サンデンバス、サンデンバス……。え、山の口って何行きに乗ればいいの……?
「すみません。梅光学院に行きたいのですが、このバス行きますか??」
「唐戸に行くバスはみんな行きますよ」と言って、女性は親切に、バスまで一緒に来てくださった。
もうワクワクで仕方なかった。
山の口に着いてバスを降りた。ついに来たのだ! 祖母がいた梅光学院の、バス停。行き方がわからない私に、梅光学院の停留所を教えてくれた運転手さんがクラクションを鳴らした。え、何? 振り向く私に、指で一生懸命場所を指してくれている。見ると、梅光学院大学、と看板があるじゃないか。私は、親切に教えてくれたサンデンバスの運転手さんにも感謝した。
いき勇んで学校に入っていく。もちろん、夏休みなので、人はいないに等しい。どこに行けばいいのか。戸惑っていた私の前に、一人の女性が近づいてきた。
私はすかさずその女性に尋ねた。
「すみません、梅光女学院の古い校舎や資料などあれば見たいと思いまして、こちらに伺ったのですが」
「そうでしたか、ですが、梅光女学院発祥の地はこちらではなくて、中学高校のある丸山町というところにあるんですよね。そちらに行けば、一番古い建物があります」
私はショックのあまり声が出なかった。「大学」ではなかったんだ。そもそも、なんで大学と思い込んでいたのだろう。中学高校もあるのは知っていたんだから、電話で聞けば、こんな遠回りはしないで済んだはずだ。自分で自分が嫌になった。
だが、その女性は「まあ暑いので、外で話すのもなんですので、中へどうぞ」と親切に図書館らしき建物のエントランスへ案内してくれた。
「今日はどのようなご用件で来られたんですか?」
「えーと、祖母が生きていれば120歳になるのですが、どうしてもこちらにいた頃の写真や資料があれば見たいと思いまして、東京から来ました」
「そうでしたか。昔の写真などは戦争の時に焼けてしまって残っていないようなんです。あったとしても、整理する担当の者がいなくて、いま手つけられない状態になっているんです」
あ! そうか、それで電話で「見せられる資料がない」と言っていたのか。
「あ、ちょっと待っていてくださいね。何か差し上げられる資料があるかどうか聞いてみますから」
なんとありがたい! しばらくすると、
「申し訳ありません。ちょっと無いようでして」
「いいえ。ありがとうございます」
本当にありがたかった。
「ここから中学高校はバスで行けるんですか?」
「それが、丸山町はちょっと遠くて、バスだと乗り継がないといけないので、タクシーじゃないと……」
「そうですか」でも、せっかく大学まで来て、発祥の地が中学高校にあると聞いたのに、行かない訳にはいかない。とにかく行かなきゃ。
「もし丸山町へ行くようでしたら、私の方から、学校の事務局へ伝えますが」
「はい、これから行きますので、じゃあお願いします」
「お名前は?」
「福田と申します」
「では、学校に着いたら事務局がありますので、そちらでお名前を伝えてください」
「本当にありがとうございます。では失礼します」
私はその女性にに偶然にも会わなければ、「発祥の地」などわからなく帰っているところだったのだ。これも何かあるに違いない。私はそう思い込んだ。
とりあえずタクシーを探したが、探していると一向に見つからず、どうでもよくなると見つかるのがタクシーだ。私は、バスが通っていた大通りへ行き、いったん下関駅へ向かうことにした。そこからタクシーで丸山町の梅光学院へ向かった。
タクシーに乗ると、どう見てもおじいちゃんの運転手さんなのに、「趣味DJ」と書いてあったのには少し笑えた。趣味がDJというおじいちゃん運転手さんと会話しながら、梅光学院へ向かった。
そして、やっとのことで、祖母もいたであろう、梅光学院へ着いた。えーと、事務局、事務局とウロウロしていると、またもや親切に、どこの誰ともわからない方が教えてくれた。
事務局の中を覗き込むと、事務服を着た女性が一人。
「すみません。私、福田と申しまして、梅光学院大学で総務課の方がこちらに連絡を入れてくださるとのことだったのですが」
「え、そうですか。ちょっと連絡は来ていないので、今大学に連絡をとってみますね」
そう言った後、すぐに連絡をとってくださった。大学側も私の事情も伝えてくれたようだ。
「六角堂という一番古い建物ですね。私も、夏休みで留守番をしているので、あまりわかっていなくって。でも、場所は聞いたのでこれからご案内しますね」
「ありがとうございます」
坂を下りながら、
「あの校舎は、古いのでお婆様もいらっしゃったかもしれませんね」にしては割と新しい校舎を指差しながら、教えてくださった。
そして、一番古い校舎という「六角堂」を指差して、「これです。窓はもう塞がっていますが、これが一番古いとされている六角堂という建物です。建物の近くまで入れますので、見ていってください」
あー、やっと来たんだ。
梅光は高台にあったため、海の方面(海は見えなかったが)が綺麗によく見える。
祖母もこんな景色を見ていたのだろうか。でも、祖母は、やはり小倉の地には帰りたくなかったのだろうか。私はしばらく景色を見ながら、祖母の気持ちをあれこれと考えた。
汗だくになりながら、また坂を上り事務局へ挨拶しにいった。
坂の途中、校舎の中にミッションスクールにはよるあるステンドグラスがあった。なんだか懐かしさを感じた。
「あらー、坂結構きついのに、わざわざありがとうございます」
「とんでもないです」ありがたく思っていたのは私だ。
さて、帰りが問題だ。めちゃめちゃ方向音痴の私がどうやって、駅まで帰るか。もう、勘だけが頼りだった。タクシーは通っていない。となれば、また大通りに出て、バスでどこかに向かうしかない。まだ、帰るまで時間はあった。
私の適当さがツキをうんだ。たまたま歩いて道はバスが行き交う大きな通りへとつながっていた。私は、祖母に感謝しながら、バスに乗り今度は唐戸へ降りてみた。
海だ! 人混みにまみれ生活していると、こんな清々しい景色が気分を高揚させてくれる。
一人だからなおさらかもしれない。
学生時代まで、私と祖母は仲が悪かった。しかし、祖母は内孫として私を可愛がってくれていたのも事実だった。それは小さな、小さなことだったかもしれないけれど、祖母が亡くなる前、介護の手伝いをした私は、祖母のそんな小さなことを少しずつ思い出していた。ああも、こうもしてくれた、と。
そして、私は初めて人を許すことの大切さを知った。
祖母は幼少期、さみしい思いをたくさんしたのかもしれない。90を過ぎても一人でピアノを弾いていた祖母。梅光女学院の同窓会からは毎年素敵なクリスマスカードが届いていた。千葉へ来ても、同級生を自宅に招いてお茶会をよくしていた。祖母の人生の中で、下関の梅光女学院での「時」はとても楽しかったのだろう。女学生時代の話は私にもよくしてくれた。
負けん気の強い祖母だったけれど、明治生まれの女は強いのかもしれない。いまとなっては、祖母に聞いておきたかったこと、教えてもらいたかったことが山ほどある。英語もピアノも、そして祖母が好きでやっていた投資のことも……。
「はいからさん」だった祖母の笑顔が真夏の青空と海と共に見えてくる。下関の旅は、そんな祖母が見守ってくれていた、旅だった。
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