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変な経歴だから採用!と言われた私の自己紹介

おはようございます。こんにちは。
こんばんは。お疲れ様です。

自分愛好家へ導く
みちしるべLab.代表の
たかまつあみと申します。

今日は私の自己紹介noteを
覗きに来てくださり、
本当にありがとうございます!

思い起こせば40年。
山あり谷あり、谷あり、谷あり…
だった私の人生。

決して平坦な道ではありませんでした。

そんな私がどんな経験を通して
今のごきげんライフを手に入れたか。

少し長いかもしれませんが、
ぜひ最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

背脂ニンニク増し増しラーメン
並に濃いめの自己紹介スタート!


生い立ち

私は千葉県で生まれ育ちました。
箸しか動かさなかった昭和ゴリゴリの父と
どんなことにも動じない、超マイペースな母のもと
3人兄弟の末っ子として育てられました。

3才くらいの私

兄弟は11歳年上の姉と、
9歳年上の兄で、どちらも実にまとも。
小さい頃は親よりも兄弟の方が厳しく、
2人の命令は絶対でした。
末っ子の私はセバスチャンと呼ばれておりました。

性格は、とにかく人見知りで、
家族以外に抱っこされると
ギャン泣きしていたそうです。

両親が働いていたので、
ほとんどおばあちゃんに育てらた
おばあちゃん大好きっ子でした。


ざっくり学生時代

学生時代も至って普通で、
小学生までは成績もぼちぼち。
スポーツだけはちょっと出来た方でしたが
クラブに入ってやるほどでもなく、
帰宅と共にランドセルを玄関に放り投げ
そのまま遊びに行っていました。

中学生になり、
大変優秀な友人が出来ました。
彼女は生まれつきの病気で
体毛が一切ない子でしたが、
人目も気にせず、
本当に明るく、頭も良くて
スポーツもずば抜けてできる子だったので
沢山の良い影響を受けました。

その子と友達になったおかげで
勉強の楽しさに目覚めたのです。

うちの親は「勉強しなさい」と
言ったことが一度もありません。

むしろ5教科なんかより、
体育、音楽、美術、家庭科の方が
人生の役に立つから
そっちを頑張れと言われていたくらいです。

勉強に目覚めた私は、
親に頼み込んで塾に行かせてもらったのでした。

高校は念願叶って国際高校に入学。
なんとクラスの3分の1が外国人!
ウキウキでした!
この頃から私の外国好きが始まったのです。

大学に行くころには「添乗員になる」という
夢を持っていたので、観光学部に進学。
総合旅行業務取扱管理者という国家資格も取得しました。

しかし、この夢が私の人生を狂わすことになるんです。


社会人1年目と重度のうつ病

就職活動は難航しました。
自分の何がダメなんだろう?と
悩む日々もありましたが、
幸い年上の友人が多かった私は
お姉さんたちの「縁とタイミングだから気にすんな」
という言葉に励まされ頑張っていました。

そして、何とか旅行会社に就職。
最初はカウンター業務からのスタートでした。

トレーナーは26歳の美人系女子。
最初は優しい人だと思っていました…

ところがこの先輩、
恐ろしく気分屋だったのです。

すごく優しい日もあれば、
ちょっとしたきっかけで別人のように機嫌が悪くなり、
私はだんだん彼女の顔色のみを気にして
仕事をするようになりました。

こうなってくると、
仕事でもミスを連発です。

ちゃんと出来ない自分を責める毎日。
物忘れも次第に激しくなりました。

毎日が辛くて辛くて
でも社会人はみんなこうなんだと、
みんなはこれに耐えられているのに
なんで自分は耐えられないんだ、
なんて弱い人間なんだと、
毎日自分を責めていました。

こうして次第に孤立していった私。
同期の子は仕事が出来る子だったので
比べては落ち込んでますますひとりに。

何もしていなくても
涙が溢れ出るようになってきていました。

最終的には、自分のロッカーすら
わからなくなってしまい、
ついに休職をせざるを得ない状況に。

半年ほど仕事を休むも、ついに退職。
念願の旅行会社での仕事は
ここでピリオドを打ったのです。

1年ほどは布団からもほとんど出られず、
その後も電車、ハイヒールの音で
過呼吸になってしまう状態でした。

ピーク時は1回で11錠の薬を服用し、
死にたいけど、おばあちゃんがが悲しむ顔を想像すると
自分で自分を殺してしまうのが怖くて寝れない…と不眠症に。

まさに暗黒時代だった23歳。

ようやく1年くらいたった頃には
外にも出られるようになり、
ある日甥っ子の絵本を買いに
姉と本屋さんに行ったときのこと。

そこで、とある言葉と運命的な出会いをします。

それは、たまたま開いた雑誌の1ページ。
そこにはこう書かれていました。

「いま、あなたがぶつかっている壁は
もしかしたら扉かもしれない」

その時私はこう思いました。
必ず扉にしてみせると。

それからは「うつ」について徹底的に勉強しました。
良いと言われる食材は積極的に摂り、
毎日鏡の前で自分に笑いかける練習もしました。
本当に何でもしました。

こうして半年くらい経つ頃には
だいぶ元気になっていた私に、
母が1枚のチラシを差し出してきたのです。

これ行ってきなよ。
そこには「ピースボート世界一周の船旅」
と書かれていました。

この旅が私の運命をさらに大きく変えることになりました。


うつ病克服と世界一周の船旅

当時25歳になっていた私は、
だんだん外にも出られるようになり、
活発さを取り戻しつつありました。

とはいえ、薬は飲んでいましたし、
とても不安定な状態は変わりませんでした。

ただひとつ、大切なスキルを身につけていました。
それは、自分の声を無視せず「休む」スキルです。

とはいえ、世界一周の船旅は
私にとって到底叶いそうにない壮大な夢でした。

でも同時に、社会から取り残されている自分から
脱却するチャンスでもあったのです。

そこで、行く行かないは別として、
まずはボランティアをやってみようと思ったのです。
ボランティアなら
仕事と違って無理ならすぐに帰宅できます。
こうして私の社会復帰が1歩ずつ始まりました。

ピースボートのポスター

皆さんも見たことありませんか?
このポスター。居酒屋のトイレによく貼ってありますよね。

まずはこのポスターの準備の仕事から始めました。
次第にポスターを実際に貼らせてもらう仕事へ。
最終的にはオフィスでお客様管理をする仕事まで
やらせてもらえるようになりました。

こうして気が付いた頃には、
東京でNGOの仲間たちとシェアハウスに住みながら
船旅代を貯めることが出来ていたんです。

船旅に行くために家族の協力が得られた私は
本当に恵まれていたと思います。
行かせてくれた家族には本当に感謝しています。

こうして私は世界一周の船旅に出たのでした。

船での生活は約4か月。
訪れがた国は約20か国です。

出航の瞬間

出航の日に台風が発生し、
台風のど真ん中に突っ込んでいくという始まりでした。

船旅の話は長くなるので
またスペースかnoteでお伝えしますね。
何枚か写真だけ載せておきます。

日々の景色
エリトリアの子供たち
ソーラン節部
この年の初日の出
この頃もガザ地区では争いをしていました
愛しのJAPAN

船旅を通して、私の性格は大きく変わりました。
悩まなくなったんです。

世界の広さを痛感しました。
海の大きさを痛感しました。

そして、
自分のちっぽけさも痛感しました。

遠くの海に降るスコール

帰国する頃には私の病気もすっかり良くなっていました。


ちゃぶ台事件とカナダ留学

病気がすっかり良くなった私は
ついに社会復帰をすることになります。

しかし、海外への想いはその後も増すばかり。
少し働いては仕事を辞めて海外に行く生活をしていました。

この期間にした転職回数は、5回。

そして28歳の時、
やっぱり諦められないと
シンガポールに留学することを決意。
そのまま向こうで就職して、
帰ってこないつもりでいました。

しかし、そんなプランを
まっとうな父が許すはずがありません。

いい加減まともに働いてほしいと思っていたところに
私から「シンガポールに行って向こうに住みたい」
と告げられ、ついに怒り奮闘大爆発!!

父「いい加減にしろ!!!」
私「これは私の人生だ!!!」
父「ふざけるな!!」
私「もう私は死んだと思って!!」

なんてやり取りをして部屋を
飛び出したのを覚えています。

3人子供がいれば、
1人ぐらい困ったやつがいるものですよね?

その後、色々あってシンガポールには行けず
代わりにカナダに行くことにしたのです。
シンガポールに行く気満々だったので
冬服全部捨てちゃっててヤバかったです。

父は怒りながらも
最終的にはいつも味方をしてくれるんです。
この時も私よりカナダのことを調べてくれていました。
泣かせてくれるんです。

そして念願の海外生活へ。

カナダではソウルメイトに
出会うことができました。
私たちはいつも一緒。

大好きな友達

彼はブラジル人で
育った場所は地球の反対側。
お互い英語は第二言語。
それでもなんでも分かり合えて、
一緒にいて本当に落ち着く友人です。
初めてできたゲイのお友達でもあります。

学校が終わり、ついに就職活動。

私は年齢も年齢だったので
日本に帰国後もキャリアとして
繋がる仕事を探していました。

ちょうど HIS CANADA が求人を出していたので
経歴書を送ってみました。
面接は4対1。3人は私に興味を示してくれましたが、
1人は全くという感じの圧迫面接。
しかもその超怖い女性が
直属の上司だというので
正直「終わったー…」と思っていました。

しかし数日後、まさかの内定をいただけたのです。
正直、嬉しさ半分、憂鬱半分でした。
だって、あのおっかない人が上司ですよ…
むしろ恐怖の方が勝ってたと思います。

入社当日会社に行くと、
あの時の怖い上司が私に一言。
あんたの経歴が一番変だったから採用した」と。
そう、題名の由来はここです。

実際に働き始めたらその上司も含め、
みんな優しくて今まで働いたどこの会社の人たちよりも
未だに繋がっています。
この時ほど、変な経歴でよかった~と
思ったことはありません。

色々悔しい思いも大変な思いもした海外生活でしたが
私に人の温かさと自信を取り戻させてくれました。

住んでたコンド近くの海


夢のディズニーキャストと婚活地獄

あと少しです。

帰国したのは30歳の時。
20代は自由にやらせてもらったので、
そろそろ親を安心させないとなと思い
真剣に就職活動を始めました。

もともとディズニーが大好きだった私は、
いつしかオリエンタルランドで
働きたいと思うようになりました。

しかし正社員の道は厳しく、2回ほど落ちました。
それでもこの時の私は何故か諦めませんでした。
強くなりましたね。

真っ当な道に戻るには
これしかないと思っていたように思います。

選考は全部で半年かかりました。
特に私にとって大きな関門となったのがSPI。
分数の計算とか存在すら忘れていたので、
めちゃくちゃ勉強しました。

そして3度目にして、ついに内定!
晴れてオリエンタルランドの社員として
真っ当な30代が始まりました。

私は舞台監督としてショーの運営に関わっていました。
新規ショーの公演初日の高揚感、
泣きながら帰るゲストの顔。
その全てが私の原動力でした。

この頃から、次第に結婚したいと思うようになりました。
それまで結婚には全く興味がありませんでした。
むしろ結婚は
地獄行きの片道切符を改札に通すこと
だと思っていたくらいです。

そんな私がどうして結婚に興味を持ったか。
それはカナダで一緒に住んでいたルームメイトと
Back to Canada 旅行をしたことがきっかけでした。

私たちは同じ部屋に住んでいて
毎日寝落ちるまで話をしていた仲でしたが、
カナダ旅行に行ったときにお互いの日常を紹介しあおう
という1日を過ごした時のこと。

私たち2人が見ていた日常が
全く違っていたことに気が付いたんです。
その時初めて知りました。

誰かと何かを分かち合うってこんなに楽しいんだ」と。

そこから私の婚活が始まりました。
アプリ、婚活パーティー、紹介
あらゆる手段を使って婚活をしました。

しかし、
お付き合いした男性たちはみんなクズばかり…
自分が素敵だなと思う人からは選ばれない現実。

あれ?
今まで溢れていた
世の中の普通男子はどこ行った??
と疑問は膨らむばかり。

そう、素敵な男性はすでにみんな結婚していました。
心がやさぐれていきます。
世の中の恋人たちが羨ましくてたまらない。
むしろ若干の憎しみ…
そんな女が可愛い顔してるわけないんです。

いい感じになる人は、既婚者、詐欺、浮気者ばかり。
もう本当に地獄でした。

そんな中でも長く続いた人がいました。
でも結局彼に結婚する気なんてありませんでした。
その現実を受け止めるのにエライ時間がかかりました。

もうダメだ。そう思って自らお別れし、
一人傷心旅行に出かけました。
自分は何のために結婚したいのか
本気で考えました。

傷心旅行から帰って、初めての婚活。
相変わらず人見知りではあったので
少人数制のやつに行きました。

そこで出会ってしまったのです。
運命の夫に

この頃の私は、恋愛指南書を読み漁り、
結婚の目的を明確にし、
とにかくダメンズに揉まれて
見る目が養われていました。
そして根拠はないけど、
私は絶対結婚できると信じていました。

初めて夫を見たとき
純粋に「素敵な人だな」と思いました。
もう二度と会えないかもと思ったら
連絡先を渡さない選択肢はありませんでした。

夫とお付き合いを進める中で、
彼の行動から、
本当に私を大切に想ってくれていることが伝わりました。
どんどん夫を好きになっていきました。

そこからはトントン拍子に結婚が決まり、
私の婚活は終わりを迎えたのでした。

婚活中の女性のみなさんいいですか。
男性の愛情はすべて行動に出ます。

口先の甘い言葉に騙されてはダメですよ。
かつての私のように。


自律神経プッツンからの起業

もともと鼻炎持ちだった私。
ついに薬を飲まないと日々の生活に
支障をきたすようになっていました。

病院に行って調べたら、
好酸球性副鼻腔炎の診断。
手術を受けることになりました。

手術自体は1泊2日。
3日後くらいには仕事にも復帰できるとのことだったので
念のため5日間お休みを取り、手術を受けました。

ところが疲れが溜まっていたせいか
全身麻酔の影響で
術後立つことすら出来なくなってしまったのです。

約2か月間の寝たきり生活。
しばらくは10分間立ち上がることさえも
困難な状態でした。

当然仕事には復帰できず、休職することに。
原因は自律神経のプッツンでした。

この時、思ったんです。
私の体力ではもうディズニーの仕事は務まらないと。

そこで考えました。

自由に生きた20代
会社員として勤めた30代
40代はどう生きたい?

私が出した答えは、
「自由に生きたい」でした。

ここから私の起業奮闘記が始まりました。
まず最初にしたことは、夫の説得。
2人の未来を何度も真剣に話し合いました。

次に体力の回復。
生活を整えました。
食事・睡眠・軽い運動。
これは絶対です。

そして自分との対話。
自分の望み、私たち夫婦の望み
理想の未来、
そのために必要な時間とお金の洗い出し。
初めてのSNS。勉強。そしてまた勉強。
これらは今もまだ進行中です。

起業を夢見てから約2年。
先日、ついに開業届を出すことが出来ました。
ここまで支えてくれた大切な人たち。
頑張ってくれた私の身体に感謝します。

Xフォロワー様400人記念。
私の自己紹介は一旦これで終わりとなります。

最後までお読みいただき、
本当にありがとうございました!

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どうぞ引き続きよろしくお願いします!
X:https://twitter.com/ami_takamatsu

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