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あんたなんか産むんじゃなかった

いきなりきついタイトルになってしまいましたね。申し訳ございません。かるーいきもちで読んでくださいね(*^ω^*)


さて養護施設での生活で子供達はいつ親に会うのか?という疑問が浮かびますが稀に会える時があります。それには二つのものがあります。まずは"めんかい"というものです。めんかいは、その日親と会えてご飯を食べたり遊びに行ったりしてその日に施設に帰ってくるというものです。もう一つは"きたく"です。養護施設と児童相談所が日程を決めて一時的に親と生活できます。


私の場合は一年で会える時が3回しかありませんでした。ゴールデンウィーク、夏休み、お正月で2日から5日ほどでしたがとても嬉しかったのを覚えています。


ある夏の日祖母のおうちに3日ほどきたくをした時、母と私はコンビニで買ったメロンパンを食べながら兄3人のゲームを見ていました。母は寝そべりながら私はその横で食べていましたが2番目の兄が母にこう言いました。「カーペットがカスで汚れるじゃないか。汚いよ。」と。その一言が後々私に一生付き纏うトラウマを作るとは思いもしませんでした。

母は「ごめんね、きれいにするね。」といってカーペットをきれいに掃除をしました。わざわざ外に出して叩いてカスをとって廊下に落ちたものもちゃんと拭き掃除までして。私もお手伝いしてる時に母は笑いながら「けんじお兄ちゃん怒ってるね」なんて話をしてました。

その後2人で戻ってきてまた後ろで見ていたのですがけんじお兄ちゃんはまだ許していなかったのです。多分私が小さい頃からけんじお兄ちゃんは母に対して憎しみがあったんだと思います。それはそうだと思います。育児放棄して情緒不安定だし無理心中もはかるし母親として失格です。

けんじお兄ちゃんは母に対してまた文句を言いました。一度ではなく何度も。内容は忘れてしまいましたがついに母の怒りに触れてしまったんです。母は声を荒上げていいました。

「今すぐここにいる全員殺してやる!私は言われた通り掃除もしたのに!」

いかれ狂う母は包丁を探しにキッチンに向かいました。ただ事ではないと祖母もきて1番上の兄と宥めていましたが収まりませんでした。私と年子と兄貴は怖くて2人でくっついていました。母の怒鳴り声は家中に響きガシャンと物音も聞こえて暴れているのもわかりました。二番目の兄はうずくまってただその怒りが収まるのを待っていました。


少し時間が経って私と母用にある寝室に私は1人で母を待っていました。戻ってきた母は静かに布団の中に入り私においでと笑顔で声をかけてきました。安心して私は母の胸の中に潜りました。そして母は私にこう言いました。

「亜美、お父さんに会いたい?」と。父は小さい頃に交通事故で死んでしまったと母から聞いてはいましたがもしかしたら生きているのでは?と勘違いしてしまった私は元気よく「うん!」と答えてしまいました。次の瞬間母は私に馬のなりながら首を思い切り締めました。一瞬何が起きたのか分からなかったですが小さな体では抵抗できずじわじわと苦しくなっていきました。

「あんたなんか産むんじゃなかった。お父さんに会いたいんでしょう?殺してあげるわよ!あんたなんか誰にも必要とされてないんだから!」徐々に私の首にかかる力は強くなる一方でした。その後の先は覚えていません。

今となってはじゃあなんで産んだんだよ。勝手にやって勝手に作って産んだのはあんただろ。最初の無理心中で殺してくれよ。もっというなら孕んだ時に堕してくれればよかったじゃないか。そう思います。


気づいた時は朝になって祖母に起こされてました。朝ごはんを食べに行ったら母は優しい笑顔で「おはよう。ご飯食べよう。今日はゲームセンターに行く?」と話しかけました。昨日のことは夢だったのかな?と思いました。


今も母の「必要とされない人間」というワードが頭から離れません。実の母親にそんなこと言われ徐々に私は腐った人間になっていきました。


そこそこ時間が経ち中学生になった時ある事件が起きます。それはまた次のお話で。


ここまで読んでいただきありがとうございました。また次の記事でお会いしましょう(*´꒳`*)



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