ジュリアン·ジェインズ著「神々の沈黙」、途中記録
以前より読みたいと思っていた、ジュリアン·ジェインズ著「神々の沈黙」を読んだ記録として。その時に感じた気付きの記録。手元にないので、解釈が微妙に違っている可能性もある。備忘録としてご容赦願いたい。
実はBRUTUSの村上春樹特集にて、何と何と、村上春樹の本100選の中にこの本が選ばれていて(勿論上下買った)家で奇声を発したのは内緒である。
実をいうと、最後までまだ読めていないというのが実情である。何せ、哲学用語満載なので、かなり読むのに時間を食う。1ページ読むのに軽く1時間程はかかる。勿論、最後まで読むつもりではいるが、かなり気力と体力を使う為、一時保留にしてある(大体残りヨンブンノイチくらい)しかし、今まで読んだ中でも沢山の気付きがあったので、途中経過として、ここに記録しておきたいと思う。
私がこの本を読みたいと思った経緯としては、鈴木尚行著の「時間とテクノロジー」に引用されていたのがきっかけとなっている。この著書もとても面白かったのでおすすめだ。その後も、何度か紹介している人が居るのもあって、読んでみたいと思っていた。
前半はかなり難しい哲学用語が頻繁に出てくるし、理解もなかなか難しかった。まぁ、何を言いたいかと言うと、いつ神様の声が聞こえなくなったの?だ。
そもそも、神ってなんだ。以前、三重県の伊勢神宮について語った時、神の定義についても触れたけど、この著書における神はもちろん、原始の神のことだ。この著書によると、どうやら何千年か前まで人類は神と会話していたらしいのだ。そして、その神と会話できなくなる時期と、自己意識が目覚める時期は重なるらしい(引用をしたいが、いかんせん手元にないもので、ご容赦願いたい)信じがたい内容ではあるが、長年この研究をしていたジュリアンの引用の多用は、かなりの説得力をもって響く。
神の声が頭に響いていた頃、人々に自己意識は存在しなかった。では、何が彼らを動かしていたかというと、「神の声」である。彼らの行動原理は「神の声」であった。そこに彼らの「~したい」とかいう欲求の介在する余地はない。神が「木を植えろ」と言えば植えたし、「家を建てろ」と言えば建てた。そこに彼らの疑問を感じる余地はない。今の私達には到底理解できない世界観だろう。しかし、ジュリアンが長年かけて調べてきた文献や土器などから当時の様子が浮かび上がってくるのである。何千年か前まで、そこに「主語」は存在しなかった。なので、「物語」も存在しなかった。
そして、その何千年か後に人がどんどん増えていき、その過程で彼らは「君の声」が聞こえなくなった。誰も自分に指示することがなくなった。そんな彼らがどうしたかというと、大事な場面になると、「神の声」を聞くために、占いを始めたのである。日本でも邪馬台国の卑弥呼などがそれにあたるだろう。占いでその年の豊作の吉凶を占ったりしたのである。そして、それは国家のみならず、民衆にまで流行っていた。ありとあらゆる占いが流行っていたのだ。
私は、この途中経過で一番感じたこと、それは「人は意思決定が苦手である」。今回、手元に資料がない中、途中経過で書く意味あるのか、と思ったのだが、私の中でこれはとても大きい意味を持っている。そして、点と点が線で繋がる感覚があった。(この著書を読んでいる間よく感じていたことだ)
だから人は神社に行くのか。と。
私も大変よく理解できるのである。私は何か大事な決めごとがあると、必ず神様にお伺いを立てるようにしている。神社に行き、どうしたらいいか答えをくれと、願う。それは、今に始まったことではなく、何千年も前からなのだ。私は戦慄した。人々はその頃から恐れていたのだ、自分で意思決定することを。
勿論まだまだ点は存在し、線になっている部分は多いのだが、今一番気になったのはここの部分である。人は自由が怖いのだ。そして、それは、とてつもなくよく理解できるのである。
神社が何故あるのか、宗教が何故あるのか、そうゆう根元的な理由が、この本を読んでいると少し理解できるような気がした。神は、私達が思うような存在なのか。ただ、守ってくれる存在なのか。神様には好みがあり、それは暗黙のルールとしてこの世にある。それは、この世界でいうところの、義理とか人情とか、道徳とかいうものだ。それに反するものは、バチが当たるとか、神道的に言うなら、お天道様が見ているのである。
誰が決めたのかは分からないが、この世界には明確なルールが存在しているのである。それは、誰に教わった訳でもなく、皆知っている。人知れず良いことをしている人に日が当たると「やっぱり神様は居るんだね」と言い、悪いことをしている人間が処罰されると「バチがあたったんだ」と言う。誰がこのルールを決めたんだろう。そして、そのルールは、知らぬ間に私達に浸透している。ある時は昔話として、ある時はアニメの中に、ある時は映画。私達は、知らぬ間に、神のルールを反芻している。
神は、ただ優しいだけの存在ではない。時として人に天罰を下す。何を言ってる。では何故この世の悪はなくならない。と言いたくなる気持ちもごもっともだ。しかし、いかんせん人は増えすぎた。何千年か前に、「神の声」が聞こえなくなった時、神は人間の保護と管理をできなくなっていたのだ。
神様は言う。「いいこにしてれば大切にしてあげる。願い事も聞いてあげる。ちゃんと私のルールを守っていればね」。
「神の声」が聞こえなくなった人間に芽生えた自己意識は、人間に色んな悪辣なものを芽生えさせる。嫉妬心、傲慢な心、他人を蹴落とす心。神様はうんざりする。ルール守ってって言ってんじゃん。自分の悪辣さを棚に上げて神様に祈る。
何故、信仰心もないのに神社に行くのか。勿論普段から神を感じている人も居るだろう。だけど、そんな人ばかりだろうか。普段は人を見下したり、意地悪している人間でも神社に行く。そして、そこで祈るのである「私はあなたを信じています。私をあなたの保護下に置いてください」と。人は自由が怖いのだ。神の保護下に居ないことが。
神は沈黙した。人は自分の心を手に入れた。手に入れた心をもて余しながら、時には神に頼りながら。それはまるで、親の元を離れる子供のように。それでも保護下に居たいとねだるのである。
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