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ガタガタIQあめやんの現代社会サバイバル

 ギフテッド、って言葉を目にする機会が、ずいぶん増えました。

 いろんな子たちに、いろんな選択肢が増えたらいいなあ、って、心底思っています。
 そしたら、かつての自分も、あんなふうに泣かずに済んだのかもしれないなあ、なんて。


 わたしは、というと。
 いわゆる「高IQ」と言えなくはない、みたいな、なんとも宙ぶらりんな立ち位置の人間です。


 IQ、知能指数、ってひとくちに言っても、いま世に普及している検査だと、いくつかの分野に分けて算出されるんですが。

 わたしの場合、いちばん高い指数は、147とかあって。テレビでよく使われる計算式(標準偏差24)に直すと、ここだけはIQ175、みたいな感じになっちゃって。
 この数字って、統計的には全人口のうち0.1%とか、そのくらいしかいないらしくて。

 ただ、分野ごとのバラツキも激しくて。とくに、いちばん低い指数になると、平均を下回ってしまうくらいで。
 それでもぎりぎり「平均的」の範疇ではあるんですが……高い指数がとことん高いので、率直に言って、「自分が自分の足を引っ張る」感覚が、ものすごく強いんですよね。


 今回は、このへんのおはなしを、ちょっと掘り下げてみようかな、と思います。
 よろしければ、ゆるりとおつきあいくださいませ。


●「あんなにできるひとなのに?」

 現代社会、生きづらいなー、って思うポイント、わたしにとってはいろいろあるんですけど。
「驚異的によくできること」のすぐ隣に、「絶望的にできないこと」の断崖絶壁が広がっている、っていうのが、もう、すっごくしんどくて。
 とくに、就業、って場面にフォーカスしてみると、ほんとこのへんが顕著で……いろいろあって、ありすぎて、いまはお仕事ってとくにしてなかったりします。人生の休暇中、ですね。


 ほんとに、できないことは、できないんです。
 でも、そう伝えても、なかなか通じないんです。

 正確に言うと、どうしてもやらなきゃならないのなら、苦手分野であっても死にものぐるいでこなすことはできなくもないんです。ただ、その対価はほんとうに重たくて、反動で寝込んでしまうことも多々あります。
 そのくせ、膨大な時間がかかるし、ボロボロにミスが多かったりする。やらかしが増える自覚があるからこそ、苦手な作業はめちゃくちゃ神経を使います。たんに遂行するだけでもしんどいのに、間違えてないか何度も何度も点検したうえで提出しないとご迷惑をかけるのが目に見えてるから、もう、ほんとうにキツくて。

 で、結果として言われるのは、「これだけのことに、なんでこんな時間がかかるの?」みたいな。

「たったこれだけのこと」を、「たったこの程度の水準」で提出する、それだけで死にかけ。おまけに、提出までにかかる時間も、とんでもなく長い。
 そんなんじゃ、業務の担当者としては使いものにならないんですよね。


 もっとキツイのは、「得意分野はとことん得意である」って点です。

 苦手がまったく含まれない業務になると、お相手の想像をはるかに超えて、あっというまに、的確に終わらせることができちゃう。
「もう終わったの? え、こんな短時間でよくここまで仕上げられるね!?」って。

 それ自体は、きっと素敵なことなんです。

 でも、「苦手分野はとことん苦手である」性質と組み合わさったとき、与える印象は一変してしまいます。
「これはこんなにできるのに、そっちはそんなにダメなの?」という具合に。

 ようは、信じてもらえないんです。

 ほんとにつらくて、限界で、「これはわたしには無理です」って申告してるのに、「もうちょっとがんばれない?」って反応が返ってきちゃって。

 それで、こころが壊れちゃった。



●十徳ナイフじゃないんです

 わたし、という人間を、なるべく単純に説明するなら。
「むずかしくて複雑なことを、わかりやすく変換して処理するのがすごく得意」な反面、「かんたんで単純なことを、素早く的確に処理するのはめちゃくちゃ不得意」です。

 って、いうのが、冒頭でちらっと触れた「IQのバラツキ」にも、思いっきりあらわれています。

 言語理解147、
 知覚統合112、
 作動記憶105、
 処理速度86。


 なんていうかな。ほんと、辞書みたいな人間なんです。
 これでうまく例えられているか、正直わからないんですけど。

 専門用語だらけの文章を噛み砕いて、わかりやすい文章に直すのは得意です。なにせ、辞書ですから。
 でも、最初から平易な言葉で記された文章に対して、辞書を使ってなにか、っていうと、ちょっと違いますよね。言い回しの工夫だとか、そういう領域になってくると思います。
 あと、「封筒折っといてくれる?」とか。それはもう、辞書引いてなんとかなる仕事じゃないです。えーと、どうしよう、折り目押さえとけばいいですかね? そういうわけじゃないですよね。

「道具」としての適性がすごくピンポイントで、ほかの用途への応用がきかない、と言えばいいのかな。
 少なくとも、確実に、十徳ナイフではない。


 そのへんが、なかなか、うまく伝わらなくて。
 おつとめびとに戻るの、正直、きついなあ、って。



●辞書は、辞書として

 なので、この療養期間はもう、わたしがすきで、得意で、やりたいと思えることだけをやっています。
 すなわち、小説を書くこと。

 小説にかぎらず、「文章をつくって、整えること」が、昔からいまに至るまで、ずーっと大好きで。
 仕事に就いていたあいだも、広報誌の記事作成とか、文書の校正校閲なんかは、すごく頼りにしていただけてましたね。あれは嬉しかったし、楽しかったな。

 なので、こんな文章を書いてみたり、身内の文章添削を引き受けたり、とか。
 そういうことに、なるべく専念しています。


 文庫の発送とかになると、オーダーどおりに取り分けて、包装して、梱包して、ヤマト運輸の営業所さんに持ってって、って、手作業と肉体労働をごりごりに伴うので、ほんとはかなり苦手なんですけど。
 でも、カツカツの納期や、キリキリのプレッシャーがあるわけじゃないので。ゆっくり、自分のペースで、安心できるまで点検しながら進められる。
 これなら、寝込むほどの負荷にはなりません。


 どうせ、「どんなことでも、だいたい、そこそこできる」ひとがほしいんだろー。

 って、社会に対して拗ねちゃった気持ちは、まだまだぜんぜん拗ねたまま、戻る気配がないんですけど。
 まあ、それでもいいかな、と、いまは思っていて。

 十徳ナイフになってくれれば、なんとでもなるよ、と言われても。わたしは、やっぱり、どうあがいても辞書でしか在れないから。
 舌と頭は回るかわりに、小回りはきかない、歩く辞書さんだから。

 だったら、わたしにできて、やりたいことを、極めてみようかな、って。
 もしかしたら、その先で、誰かが求めてくれるかもしれないし。
 たとえ「誰か」に出会えないとしても、わたしの綴る文章は、間違いなく、自分のなかにいるかつての自分が必要としているものだから。

 いまは、それでいいんじゃないか、って。
 ようやく、こんなふうに思えるようになりました。



 2022年の終わりによせて、今回はちょっと、自叙みたいな文章を書いてみるなどしました。
 いつもは、noteだと小説を中心にしつつ、体験してきたことのレポみたいなものとか、好きなように書いています。
 Twitterはもう、なんか、てきとーに。

 歩く辞書として、物書きとして生きる道を模索中のデコボコ生命体にご興味がありましたら、noteとかTwitterとか、フォローしてみてもおもしろい……かも。
 たぶん、直接的には、IQまわりの話はしないかな、と思うんですけど。それでもよければ。



 はい、そしたら、今回はこんなところで! 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 では、またどこかで!



雨谷とうか / 飴屋
@ameya_ayameya

2022/12/31

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