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第1幕『流れ星の少年』 #5

8月13日
月齢:1.7
天候:快晴
特記事項:ペルセウス座流星群の極大(午前10時頃)

 月もなければ街灯りもない夜明け前の空に、流れ星の雨が降り注ぐ。今年のペルセウス座流星群は、極大を迎えようとしている。
 この際、なんでもいい。神さまでも、ご先祖さまでもかまわない。あるいはそう、父さんでも。叶えてくれるのなら、なんでも、いいから。
 願わくは、もう一度。
 僕にはひとつ、やり残したことがある。

 この電車を逃すと、次は一時間後。それはなるべく避けたかった。時刻は午前十時、寄り道をしている余裕はもはやない。駅前の広場からは、駅のホームがよく見える。残念ながら、いま僕が乗りたい路線のではないけれど。息を切らして見上げれば、そのホームの日陰に、ぽつり、立ち尽くす小さな影があった。それが、見知ったものであるように、思えて。
 まさか、とは思う。思うけれど。
 駆け出した足を止めることはできなかった。改札を抜け、階段をひと息に駆け上がってホームへ。見渡す。見慣れた髪色はいない。見間違い、気のせい、そんな偶然あるわけが。星に願いを、なんて、やっぱりばかばかしいのだろう。息をついて、踵を返した。もともと向かう予定だったホームへ移動しようとして──その足が、ふと止まる。
 遠く、ホームの端のほうで、白い髪がきらきらとして見えた。いつになく小さく、頼りないその背中。いまを逃したらもう二度はないような、そんな予感に駆られた。
 その予感は、きっと間違いではなかった。
「コウ」
 名前を呼ぶ。もう一回、強く叫ぶ。彼はゆっくりと振り向いて、信じられないものを見るみたいに僕を見つめて。
「──にい、ちゃん」
 遠くからでもわかる、見開かれた瞳が、じんわりと揺らいだ。それを振り切るように、彼は満面の笑みを僕に向けた。
「また会ったなー、るせにーちゃん!」

「にーちゃんも、汗だくになることってあるんだなー」
 駆け寄ってきたかと思えば、コウは真っ先にそんなことを言った。コウから重そうな荷物を押しつけられたのは、たぶん彼をきょうまで預かっていたほうか、いまから預かることになるほうか、まあそのあたりのひとたちなのだろう。困惑した顔でこちらを見ているから、よそゆきの笑顔で一礼してみせて、とりあえず無視。息切れがひどくてそれどころじゃない。
 よそさま用の仮面は、さっさと取っ払った。息をつく合間に、言い返す。
「ひとを、なんだと思ってるの」
「いやー、ちょっとな! いつも涼しそーな顔してるから」
 ……ほんとうに、ひとをなんだと思っているんだ。僕の冷え切った視線にも、コウはもう動じない。
「で? そんな焦ってどーしたんだよ?」
 答えようにも、なんと説明したらいいのか。あと、そもそも、息が切れてそれどころではない。こんなことになるなら、もっと日頃から運動しておくんだった。ああ、暑い。なんで長袖のパーカーなんか羽織ってきたんだ、僕。いや、理由があるからそうしたんだけど。顎を伝う汗を、手の甲で拭う。
 ひとまず呼吸を整えようと、ひとつ息を吸ったとき、
「──にーちゃん、ありがとな」
 呼吸が止まった。なんなら心臓も止まった。
「なに、が」
「まあいろいろ、すっげーいろいろあるけど……駅前からダッシュしてんのも見えてたし」
 ……よく見えてたな。
 あれとか、これとか、それとか、コウはいくつも指折り数えていたけれど、その手をぱっとほどくとひらひら振ってみせる。いったんそれらは置いておく、ということだろう。
「まあ、うん。にーちゃんはきっと、わかってたよな。オレの目のこと」
 言い切る彼の声は、穏やかに凪いでいた。ごまかす気なんかなかったけれど、どのみち隠しおおせることはできないのだと理解する。
「ていうか、にーちゃんのことだから、目だけじゃないか。髪のことも、肌の色のことも、知ってたんだろ」
 雪を思わせる白髪に、赤い目、色の薄い肌。
 アルビノ。先天性色素欠乏症。生まれつき、髪や目、肌などの色素を合成できないひと、というのが存在する。そのくらいは、知識としてわかっていた。目の当たりにしたのは、さすがにはじめてだったけど。
 コウがそれに当てはまるのだろう、ということは、最初に会ったときからなんとなく察していた。
「なにも言わないでくれたの、にーちゃんがはじめてだったんだ」
 その言い方で、確信する。僕がわかっていたということを、コウもきっとわかっていた。それとなく日陰に誘導したり、日を遮れるものがなければ貸したり、遠くのものが見えているか尋ねたり。僕がやっていたことの意図を、コウは正確に理解していた。
 まったく、ほんとうに。
「いまは、まぶしくない?」
「うえー、そんなことまで知ってんのかよー」
 コウの目の色は、血の色だ。虹彩や瞳孔に色がないから、血液の色を透かして赤く見える。光をやわらげることのできない彼の目が捉える世界は、たぶん、僕が見るよりもはるかにまぶしく、ぼやけているのだろう。
 一緒に空を見上げたあのとき、彼の目に星は見えていただろうか。少なくとも、僕とまったく同じようには、見えていなかったのだと思う。想像することしか、できないけれど。
「……まあ、うん。ぶっちゃけ、いまもまぶしい。けど、にーちゃんの影にいるとだいぶ楽」
 僕がつくる影にすっぽりと収まって、コウは僕を見上げている。その白い頭を、ぐしゃっと撫でた。コウが小さく笑う気配。
「どしたー? にーちゃん」
「なんとなく」
「そっか。……あ、あと、そうだ、言えたら言おうと思ってたんだけどさ」
「なに」
「にーちゃん、やっぱプラネタリウムのおにーさんとか向いてそーだよなーって。るせにーちゃんが説明してくれるプラネタリウムとか、オレならぜったい通うもんな」
 それは過去にも聞いたけど、今回ばかりはちょっと聞き逃せない発言だった。
「へえ?」
 にぃ、と唇が歪むのを自覚する。ちらりと彼を見やれば、ぎくりと頭が揺れる。
「……なんだよ?」
「聞きに来てよ」
「は?」
「僕が解説するプラネタリウム」
「……。マジで?」
「マジで」
 夏休みの課題、最後の難関だった進路希望調査票。こんなことをきっかけにして書けるようになるとは思っていなかった。正直言って茨の道なんだけど、まあ。
 ぽん、とコウの頭をひとつ叩いて、手を離す。
「いつになるかわからないけど、いつかね」
「そっか。──そっかぁ。楽しみにしてるからなー?」
「ああ」
 さてと。腕時計を一瞥する。
 最後に。
「コウ」
「んー?」
「荷物、まだ余裕ある?」
 回りくどい言い方に、コウはきょとんとして首を傾げた。あらためて見てみれば半袖にハーフパンツ、これでは光に対して無防備にもほどがあるだろう。時間もないし。
 仕方ないな。うん、仕方ない。
 羽織ってきた長袖のパーカーを、ふわりとコウの肩に引っかけてやる。
「ちゃんと返してよ」
 コウは、目を丸くした。こぼれそうなくらいに。それから、しっかりと、こくりと頷いた。
「わかった。ぜったい、返しに行く!」
「待ってる」
 駅のアナウンスが、まもなく電車が来ると告げる。時間だ。うつむいてしまう彼の頭を、もう一度だけ撫でてやることにする。
「それじゃ、またね」
 声が震えなくてよかった。そっと手を離すと、離れた手を追うようにして、赤い目が僕を見た。
 顔を上げたコウは、ぼろぼろに泣いていた。声を殺して、肩を震わせて。──そんなに静かに泣かれたら、気づけないじゃないか。
「どう、しよ。泣いてる、ばあいじゃ」
 どうしよう、と、頼りない声が縋ってくる。けれど、涙の止め方なんて、そんなの。視線の高さを揃えたくて、軽く膝を折る。
「悲しいときは、泣いていいんだよ」
 僕の言葉に、コウは小さく息を飲み込んだ。
「コウは頭がよくて、周りがよく見えて、先がどうなるかってことまで読めてしまうから、そうやって押し殺そうとするんだろうけど。悲しいときは泣いていい。声を上げたっていい」
 君に会うまで、知らなかったことばかりだ。自分が、こんなにあたたかい声をしていることさえも。
「コウが、教えてくれたことだろ」
 ほら、行け。
 電車がホームに入ってくる。とん、と小さな背中を押してやると、堰を切ったように泣き声があふれた。コウは泣きながら、一歩を踏み出す。二歩、三歩、涙を拭いながら歩いていって、そして。
 一度だけ僕を振り向いて、コウは晴れやかに笑ってみせた。その頬を、大粒の涙が伝っていく。
「それじゃ、またな、るせにーちゃん!」
「ああ。また」

 電車を待ちながら、無意識に左のポケットを探る。小型ラジオの慣れ親しんだ重みは、そこにはない。空を切った左手を、ちらりと見やる。黙々と、淡々と、時を刻んでいく小さな星座盤。
 さて、コウは僕のお節介に気づくだろうか。あいつのことだ、早々に気づいて理解するだろう。
 眠れない夜には、流れ星を数えてみたらいい。たとえ見えなくても、泣きながらでも、流れ星は探せる。僕はそうやって、いくつもの夜を越えてきた。誰もがそうして乗り越えられるわけじゃないのは、わかっているけれど。

 きっと、少しは君の救いになると信じている。
 そうであればいいと、願っている。

 空を、見上げる。青く青く、晴れ渡った夏の空には、この瞬間も星々が降り注いでいる。
 こちらの空も綺麗だが、そちらの空はどうだろうか。


この続きは、文庫版にて。本棚に並べたいな、と思ってくださったかたは、よければご検討くださいね。


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