『イルカとあおぞら』 #1
12月25日 金曜日
クリスマスプレゼントに、ノートをもらった。
紙を入れ替えながら、ずっと使えるタイプのリングノートだった。ふつうのノート、もったいなくて使えない、ってなっちゃうの、サンタさんにはお見通しだったみたい。パックになったリフィル、いっぱい入ってた。ありがと、サンタさん。
セットになってたの、インクとボールペン。このボールペンも、インクをきちんと補充していけば、ずっと使い続けられるみたい。ただし、ペン先でインクが乾燥して固まってしまうと、修理しないといけなくなる、らしい。毎日少しでも書いていれば、だいじょうぶみたいなんだけど。
どう使うのがいいかな。こうやって、なんか、そのとき思ったこと書いてくのでも、いい、のかな。
「——みーつけた」
ふわっと、後ろから首元にかかる、あったかくてやわらかな、ふわふわした布素材。わたしのマフラー、だった。後ろのほうで手早くマフラーを結びながら、耳慣れた声がする。
「ここにいたんだね」
「ん。考えごと、してた」
「そっか。考えはまとまった?」
「だいたい、は」
「よかった」
浜辺と道路を区切っている、コンクリートの上のとこ。ここに座ると、水平線まで見渡せる。ここから、海と空を眺めるの、気に入っていて。考えとか整理したいとき、よく来てしまう。
そのことは湊も知ってるから、こうやって呼びにきてくれる。
「帰ろ、るり。晩ごはん、できてるよ」
「あ。……ごめん、湊」
「ううん、いいよ。行こっか」
「ん」
ノートを閉じて、ペンと一緒にポーチへしまう。なんでもないことみたいに、湊はわたしの手を引いた。そろりと握ってみれば、笑いながらきゅっと握り返してくれた。
潮風と、波の音が、遠くなっていく。
「家までの道、そろそろ覚えた?」
「う。……住所、書き間違えたことはある、けど、迷子になったことはない、もん」
「あはは、それもそっか」
ぽつぽつと建ち並ぶ、一軒家のうちのひとつ。耳を澄ますと、遠くのほうで潮騒が聞こえるあたり。ここが、わたしのおうち、ということになっている。
籠目市かごめ町一丁目六番地五号、鳩羽方。現住所は、と問われたときに、迷わずこう答えられるようになったのは、ごく最近のこと。ぼんやりしていると、うっかり、前の住所を書きそうになってしまう。一画目で気づければ、ぎりぎりごまかせるけど。願書とか、気をつけないと。
玄関先でふと振り返った空には、お星さまがいくつも瞬いている。わたしがおうちを出たときは、まだ空が明るかった、と思う。少なくとも、星は見えてなかったはず。長居したつもりはなかったんだけど、ずいぶん経ってたみたい。湊に巻いてもらったマフラーに、顔をうずめる。心配、かけちゃったかな。怒られる、かな。湊が玄関の鍵を開ける音。つないでもらったままの手に縋る。だいじょうぶ、と告げるみたいに、頭をなでてくれた。それで、優しく腕を引かれて。
「ただいまー」
「おかえりなさーい」
湊の声に、廊下の奥から返事があった。リビングへ続いている扉から、橙子さんが顔を出す。わたしをみとめると、ふわりと笑いかけてくれた。
「ああ、よかった。おかえり、湊、るりちゃん」
「ただいま、です。ごめんなさい、遅くなっちゃって」
「だいじょうぶよ、無事ならそれで」
「あ、……ありがとう、ございます」
「うん。ごはんにしましょうか、ふたりとも手洗っておいで」
「はーい」
靴を脱いで、揃える。玄関のコート掛け、わたしにはちょっと高い。羽織っていたピーコートを、湊が預かってくれた。先に行ってていいよ、って言われちゃったから、頷いて、洗面所。
お水、痛いくらいに冷たい。お湯って、どうやると出せるんだっけ。手を洗うだけだし、我慢できるかな、なんて思っていたところに、横から手が伸びてきた。
「こっちもひねるとあったかくなるよー」
「あ。そう、だった」
こういう、細かいとこ、まだ覚えられないでいる。
「気をつけてね、やりすぎるとあっつくなるから」
「う、……それ、困る」
「あはは。加減が難しいんだよね、これ」
うーん、と湊は少し考えて、それから。
「半分、がわかりやすいかな?」
「はんぶん」
「たとえば、水のほうが九十度くらいだったら、お湯は四十五度くらいにしておくとちょうどよくなる、みたいな」
「そう、なんだ」
試しに、お湯が出てくるほうのハンドルを、もうちょっとひねってみる。ほんとだ、ほどよくあったかい。これなら、痛くなさそう。丁寧に、手洗い、うがい。そのあと、リビングへ。いったんお部屋に戻るか迷ったけど、いま持ってるの、ノートとペンの入ったポーチと、スマホだけだから。とりあえず、持ったままでいいかな。これ以上待ってもらうの、さすがに忍びないな、とか。
きょうの晩ごはんは、ローストチキンだった。わたしが辛いものぜんぶだめだから、スパイスを使わずに仕上げたもの。ナイフが持てないわたしの代わりに、橙子さんが切り分けてくれていたみたいで。
「るりちゃんの、先に切っておいたんだけど……冷めちゃったかな、あっためる?」
「あ、えと。だいじょうぶ、です、このままで」
晩ごはんの時間、忘れてたのは、わたしだし。それに、
「猫舌、なので。ちょうどいい、かな、って」
「そっか。うん、わかった」
そしたら、ふたりにならって、手を合わせて。いただきます。
わたしより先に食べ終えた湊は、いったん席を外した。取ってくるものがあるから、って。なんだろ、と思いながらも食べていたら、湊が持ってきたのはクリアファイル。そのまま、橙子さんに差し出して。
「これ、成績表」
「はい、たしかに。二学期おつかれさま、よくがんばりました」
あれ、と思う。成績表、てことは。
「きょう、終業式、だっけ?」
「うん。……あれ、るりもそうじゃない?」
「……あ。そう、かも」
忘れてた。てことは、あしたからは冬休みなんだ。わたしには、あんまり関係ないけど、いちおう。学校はどうしたの、とか、聞かれちゃったときの返事に困らないで済むのは、ちょっとありがたいかも。
きょうの晩ごはん、すごくおいしかったな。手を合わせて、ごちそうさまでした。今回もお皿は湊が洗うみたいだったから、カウンター越しに食器を渡す。湊の手元、ぼうっと眺めていたところに、
「そういえば、るりちゃん。出願先は決まった?」
橙子さんから尋ねられて、振り返る。あしたの朝ごはん、なににしたいかな、って尋ねるみたいな、さらりとした問いかけだった。そっか、わたしが食べ終わるまでは、話を切り出すの、待っててくれたんだな。こくんとひとつ頷いてみせて、ポケットに入れていたスマートフォンを取り出した。ブラウザから、ブックマークの一覧を表示。志望校のホームページを選んで、開く。橙子さんの向かい、自分の席に戻って、
「この学校に、する、つもりです」
そろり、画面を示してみる。橙子さんは、学校の名前だけでも、だいたいの察しがついたようだった。一緒に、学校の見学とか、個別相談とか行ったから、覚えていてくれたのかもしれないな、なんて。スマートフォンに向けられていた視線が、すぐにわたしのほうへ戻ってくる。
「燕川か。私立の通信制高校ね」
「はい」
「理由、聞いてもいい?」
「だいじょうぶ、です」
ちゃんと、説明できるかな。震える息を吐ききって、ゆっくり吸う。
「まず、全日制の高校に行くつもりは、なくて。学費も、時間も、かかりすぎるから。それに……教室みたいな、みんなが集まる場所、だめなの、もう、わかってるし」
「そっか。それで、通信制にしたのね」
ん、と小さく顎を引く。そのまま目線を伏せてしまったけど、橙子さんはわたしを咎めたりしなかった。
「いっそ、高校には行かないで、高認取って大学行こうかな、て、いうのも、考えたんです、けど……大学、ってなったら、もっと学費高いし、そのとき自分がどういう状態かも、わかんない、ので」
高認、正式には高等学校卒業程度認定試験、って名前だけど。これで得られるのは、あくまで大学を受験する資格だから、これだけだと学歴のうえでは中卒扱いになってしまう。その点、通信制でも、それ以外でも、高校を卒業した、って事実に変わりはないから。
とりあえず、高校卒業の学歴を持っておいたら、最低限はなんとかなるかな、って。
「それ、で。インターネット学習がメインの通信制って、基本的に私立の学校だから、学費、意外と高かったりするんですけど……調べてみたら、支援金制度とか、特待生制度とかあって。学費、かなり抑えられるはず、だし。ここの学校なら、年に一回の集中スクーリングだけだから、普段は通学しなくていいし。ちょっと、合宿、こわいけど、毎日とか週一回とかで通うより、ずっといい、と思って……」
わたしなりにいっぱい考えて、いま思いつくなかではこれがいちばんいいな、って。そう思って、選んだこと、だけど。
「……だめ、ですか?」
「ううん。るりちゃんがたくさん考えて出した結論でしょう、尊重するわ」
なんの迷いもなく、そう応えてくれるとは、正直、思ってなくって。ちょっとだけ、顔を上げてみる。穏やかに笑ってわたしを見つめる橙子さんと、目が合った。
「念のため、ひとつ確認させてね。学費については、気にしなくていいのよ」
そう尋ねてくる声も、ほんとうに、やわらかなトーンをしていた。わたしの結論を否定するために言ってるわけじゃない、って伝わってくる、あったかい声。
お金のことは、わたしが心配する必要ない、って。橙子さんはきっと、そう言ってくれるんだろな、っていうのは、最初から思ってた。それでも、結論は変わらない。
「ほかのひとのことは、わかんないけど……少なくとも、雛井るり、っていうひとにとって、学校に通うことの価値、高くない、と思います。得られるものより、負担がずっと大きいから。年間で何十万円とか払うほどの価値、わたしは、感じなくて」
ちょっと、言葉、きつすぎたかな。ふにゃっと、意識してやわらかく笑ってみせる。
「そのお金は貯めて、道具とか材料とか揃えたいな」
「うん、わかった。併願は?」
「とくには、考えてないです。燕川、よほどのことがなければ、不合格は出してないから。学力試験はありますけど、これ、特待生になりたいひとだけが受けるもので。合否には、影響しないみたいです」
「そっか」
「はい。ただ、定員はあるはずなので、早めに出願しようと思ってます」
「そうね、それがいいと思う。必要な書類、いまから一緒に確認しましょうか」
「ん。おねがいします」
わたしが書くのは、入学願書と、志願理由書。どちらも、様式は手元にある。前に行った個別相談で、募集要項と出願書類も受け取っておいたから。いったんお部屋に戻って、書類の入った封筒ごと抱えて、リビングに戻る。
この学校、選考らしい選考をやってないんだな、っていうのは、個別相談のときに気になって、尋ねてある。燕川では原則、入学前の個別相談が必須になっているけど、じつはこれ、面接を兼ねているのだそうだ。それで、燕川での受け入れができないと判断した相手には、そもそも願書を手渡していない、とのことで。なんらかの事情で、事前の個別相談ができなかった受験生に対しては、面接での選考を行う、という話も、そのとき聞かせてもらった。
「あの。わたしの保護者って、橙子さんですよね」
「うん、そう。続柄のところは、未成年者後見人、としておいてね」
「……えと、その。続柄のとこ、記入欄が、だいぶ、狭い、んですけど」
「あー……そうしたら、後見人、かな?」
そっか。保護者の続柄って、だいたいの場合、父、とか、母、とか書くだけだから。狭いのも、しかたないのかな。後見人、って三文字なら、どうにか書けそうだ。
あとは、卒業見込証明書。これは、いま在籍してる中学校に作成してもらう書類。必要なのはわかってる、けど、学校に連絡、いやだな。勝手に震えたわたしの手を、橙子さんが両手で包んでくれた。
「——え」
「だいじょうぶ、心配しないで。中学校の先生には、私から連絡する」
「いい、んですか」
「もちろん」
冷えていた指先に、じんわりと移ってくるぬくもり。橙子さんの手、あったかい。少し遠のいていた感覚も、だんだん戻ってきた。これなら、書類、つくれそう。
「るりちゃんのこと、応援してるからね」
「あ。ありがと、ございます、橙子さん」
「うん、どういたしまして」
指先の感覚が戻るのを待ってから、願書の続きを書き進める。自信のないところは、橙子さんと一緒に、記入例とか確認しながら。
入学願書の記入欄がひととおり埋まったあたりで、なんとなく、甘い匂いがした、ような。なんだろ、湊かな。キッチンのほう、見てみると、湊の明るい声が聞こえた。
「はーい、デザートできましたー」
「あら、なにか仕込んであると思ったら」
「あはは。ほんとはケーキでも用意できたらよかったんだけどね、意外と時間なくて。ことしのクリスマスは、これで許してほしいなー、なんて」
「許すもなにも、頼んでもないのに毎年ハードル上げてるのは湊でしょうが」
「あー、それもそうかも?」
ちょっと、ふたりの会話についていけなかった。首を傾げていたら、湊がさらっと補足してくれた。
「鳩羽さんちだと、こういう日のデザート、僕の担当なの」
「あ。そう、なんだ」
そっか。器用だもんね、湊。それと、いったん凝りはじめると、周りが止めようとしても止まらなくなるのも知ってる。……時間がなかった、って言ってたけど、もし時間があったら、どんなの用意する気だったんだろ。なんだか、しれっとすごいもの出してきそうで、こわい、というか。
ともあれ。湊が持ってきたおぼんの上には、ココット皿に入ったチョコムースと、ほんのり溶けたマシュマロのクッキーサンド。すごい、いちごのサンタさんもいる、かわいい、おいしそう。甘い匂いがしてたのは、マシュマロを焼いてたから、かな。ほんとに器用だな、なんて思って、ぼんやり見ていたら、
「るりー、一緒に食べよー」
「……いい、の?」
「うん。というか、三人ぶん用意しちゃったから、食べてもらえるとありがたいな」
ほんとだ。ココット皿、みっつある。そういうことなら。いったん、ボールペンを置いて、書類を封筒に戻す。志願理由書は、ゆっくり考えて書きたい。
書類や資料を片づけたダイニングテーブルに、てきぱきと並べられていく食器たち。わたしの前にも、ムースとクッキーサンドと、スプーンが置かれている。スプーンを取ろうとした指が、また震えてしまって。隣の席で、湊がふにゃっと苦笑する。
「なーに、僕がるりのぶん用意しないと思ってたの?」
「そういうわけじゃ、ない、けど……」
けど、用意されてなくてもおかしくない、って思っちゃってたのは、正直なとこで。クリスマスのプレゼントだって、受け取っていいのかな、って。ほんとは、ちょっと、ていうか、すごく不安で。でも、そんなこと、言えるわけなくて。
なんにも言えないままうつむいてしまったわたしの頭を、ふわり、なでてくる手があった。ますます頭が追いつかなくて、ただ茫然と見上げるしかできない。
「これ、るりに食べてもらいたくてつくったんだよ」
「え、……でも」
こういうデザートをつくること自体は、湊にとって、毎年のこと、じゃないのかな。わたしがいても、いなくても、変わらないんじゃ、ないのかな。
「んーとね、もうちょっと正確に言うと。るりと一緒に、三人で食べるつもりで準備しました。前までだったら、たとえばムースに使うチョコとか、もっと苦いのにしたと思うんだけど……せっかくなら、食べたひとみんなで、『おいしい』って言えるといいなー、って。なので、ミルクチョコとビターチョコ、両方とも刻んで混ぜてみた」
ビターチョコだけだと、わたしには苦すぎる。かといって、ミルクチョコだけだと橙子さんにとってはかなり甘くなってしまう。みんなでおいしく食べられるように、考えて、工夫して、こうやって出してる。
そこまで説明してから、最後に湊は穏やかに笑って。
「ね、一緒に食べよ?」
「——あり、がと」
橙子さんと湊と、三人で食べたデザート、ほんとにおいしかった。ふわふわ甘くて、チョコレートやココアパウダーのほろ苦さもちょうどよくて。
わたし、苦いものって、得意じゃないのにな。苦い、っていうより、優しい味だ、って思えて。
ふしぎ、だな。
メリークリスマス。
って、言ってもいいのかな。ちょっと自信がないから、日記のなかだけにしておく。
次のおはなしはこちら。
最終更新:2022/12/07 次の話へのリンクを貼りました。
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