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火がない日がない【小説】

6号館の屋上。喫煙所の隅で、あたしは「あっ」と声をあげた。
ライターがない。昨日あげちゃったんだ、とまた風呂に入れなかった黒髪をぐしゃぐしゃとつかむ。

あたしは喫煙者ではない。タバコをたまに吸っているだけだ。今日のところは退散しよう、と嘘みたいに青い空を見上げた瞬間だった。

「火、あげましょうかあ」

金髪の、もう明らかに喫煙者、といった女の子がライターを差し出していた。紫色のライター。「ほれ」と投げてくるのをキャッチしてしまった。

「ぽくないねえ、何吸ってんですかあ?」

間延びした不思議な声に釣られて、「これ……」と見せてしまった。

「ぽくない」あたしの「ぽい」タバコ。パッケージは可愛らしいピンクのお花柄。ニオイがつきにくいです、とかうたう1ミリのタバコ。わざわざピンクにしないでくれよ、生理用品じゃないんだから、という文句をどこに言えばいいかわからない。けれどもあたしはこれくらいしか吸えるものがない。

1ミリなんか吸って空気だよね。よく言われる言説に、自分でもそう思うのだけれど、今のご時世、マスクを外して堂々と空気を吸えるのは喫煙所くらいのものである。

火をつけてライターを返すと、金髪は帰って行く。大きく膨らんだ黒いリュックが、やけに目についた。

     *

「めっけ」

少し長くなった金髪が、ゆらゆらと手を振っている。

あれから、彼女とよく喫煙所で会うようになった。というよりは、あたしが喫煙所に行く頻度が上がっただけだ。まるで彼女を待つように、とあくまで目的を「タバコ」にしたままだ。

「ほんとよく火、なくすよねえ」

彼女の差し出すライターを、ジッと鳴らして火をつける。

なくす、というよりあげてしまうのだ。「ライター、ある?」と聞かれるとすぐに出してしまうのだ。だからなくしてるのはあたしじゃない。でも、火がない日、ほとんどない。だって彼女が貸してくれるから。昨日と同じ服のあたしのことを、彼女は何も言わないでくれる。

     *

めったに出ない講義に出た。じゃあなんで大学に来ているのか、というとただの時間潰しだ。時間潰し、というか穀潰しのあたしは、あの人の仕事が終わるまで放り出されている。

騒がしい大教室。だから嫌いなんだよ大学って。講義が嫌なら、あたしみたいに来なきゃいいのに。講義が始まると、突っ伏して寝るくせに。

「えー、来週は祝日だから休みにします。その代わり、レポートを提出すること。成績に含めますから」

黒板を向いたまま、先生は「寝ている人には伝わらなくていいですけど」と付け加える。やっぱり先生もムカついてんのかな。

見渡す限りの机と仲良しな頭、頭、頭の中にしゃんと座る金髪を見つけた。彼女だ。

そうか、彼女はこの講義を受けていたのか。「ぽくない」けれど、きっと素敵なレポートを出すのだろう。だってあの大きなリュックは、遊びに来ているあたしとは違う。あたしもがんばらなきゃ、と久々に思った。

     *

翌週、あたしは相変わらずふらふらと大学に行く。珍しく立派なレポートを書いてもう提出してあるが、今日は出勤らしく、また追い出されてしまった。合鍵さえ渡してもらえないんだなあ、あたしは。

屋上へ上がるまでの道のり、廊下に彼女がいた。

「なんか今日、授業休みみたいでえ……」

え、知らないの? ちゃんと聞いているように見えたのに?

金髪をかきあげる彼女。あたしは気づいてしまった。補聴器だ。聞こえて、いなかった?

慌てて紙とペンを、取り出そうにもあたしのトートバッグに勉強道具はすっからかん。やっとボールペンが1本見つかったところで彼女は言った。

「まだ、聞こえている、って信じていたいから……」

瞬間、すべてを理解する。喫煙所では口元が見えていたから、あたしの言葉は「聞こえて」いたんだ!

あたしはマスクを下げて空気を吸った。

「レポート、書こうっ」

今日の提出にはまだ間に合う。そうだ、間に合うんだ。あたしだってこれからちゃんと見るんだ!

彼女の手を握って図書館へ走り出す。握り返された手は、いつもあたしに火をくれた手だ。火がある日がある、今までくれたぶんがこの手に全部ある。

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