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交換家出【小説】

ぱりんと響くは鋭い音。ごふっと響くは鈍い音。
あたしは眠ったふりをする。優佳はもう寝たのかあ、と耳にこびりつく声を無視して、目をかたくかたく閉じたままにする。
——明日起きたら、ちゃんと元に戻っていますように。
そんな願いをもうひとりのあたしがあざ笑う。元からこうだったじゃない。
かたく閉じた目からは、涙さえもこぼれない。

     *

「おい優佳、数学のノート、どうだった?」
「あー、Bだったよ」
「よっしゃ、おれの勝ち!」

小学校が同じ理人《まさと》は、おそらく幼なじみになるのだろう、最近勉強を頑張っているように見える。
私立の中学へ行って人間関係をリセットしようと思ったが、電車で4駅のここではリセットなんてできなかった。
別に理人は悪いやつではない。全部が全部嫌だなんてことは、何事にもあまりない。

「あー、なんだった?」
「Sだよ! すげえだろ」
「あー、すごいね」

優香は昨日のことを考える。家は、いつからあんなふうになってしまったのだろう。
中学に進学した頃はまだましだった気がする。あたしが中学に受かったことで、あの人も会社で鼻高々だと聞いていた。
じゃあ、いつ? そもそも、あれが「正しい」のだろうか。

「なあ、優佳……」

やたらと話しかけてくる理人を適当にあしらう。
あたしの頭は、バリアが張られたように何も受け付けない。最近、ずっとこんなんだ。
父と母の仲が悪い。よくあることじゃないか。ちょっと仲が悪くて、ちょっと物が飛び、ちょっと壊れるだけのよくあるおうち。
くよくよしていられない。あたしは相変わらず何か話しかけてくる理人へ、無意味にピースサインを見せた。

     *

毎日というわけでもない。仲が良さそうな日だってある。だからまだましなんだ。たまに何かで聞くような、崩壊した家ではない。
あたしはまだここを、家だと言える。中学生だからそう言うしかないと言えばそうなのだけど、自分の部屋があって、自分のベッドがあるここは、やっぱり自分の家なのだ。
そうやって心を落ち着けないといけないのは、悪い予感がしていたからだろうか。油断していたあたしが悪いのかもしれない。

アイスを食べにリビングへ行くと、今日も酒に酔った父が帰って来て、今日はなぜかごきげんで、母の名前を甘ったるい声で呼びながら抱きつこうとした。そして、母は避けてしまった。
あたしは、まずい、と思ってすぐに引き返そうとした。いつもと違う。いや、たいして変わらないのか?

「なんで、二人しておれを避けるんだよっ」

そのとき振り上がったものが何だったか覚えていない。
聞こえるはずの音が聞こえない。
ぱきっ、ぴゅん、ばしっ、ぼん。覚えている音を当てはめてみるが、全然当てはまらない。解答欄、埋まらず。選択肢に、不備があり。
ねえ、どうして聞こえないの。

あたしは、サンダルをひっかけて外に飛び出した。真っ赤な自転車に飛び乗ると、なるべく遠く、なるべく明るいところを目指した。つもりだった。
中学生の限界は、ごく近所のコンビニで、そこには見知った顔の、人がいて。

「おっ、優佳じゃん」

あたしは「ひっ」と小さく声を上げてきびすを返す。
ああ、さっきの母さんの声と同じだ。あたしも、同じなんだ。

     *

大丈夫。大丈夫。あたしは大丈夫。頭の中でずっと唱えている。
大丈夫。あたしはまだ、大丈夫。なにが? なんでもいいよもう。

大丈夫、の言葉を燃料にあたしはホームルームギリギリで教室までたどり着いた。しかし、たどり着いただけだった。

「おっ、優佳! きのうお前、おれのこと避け——」

全部聞き終わる前に、あたしの足は保健室に向かった。走りながらぼろぼろこぼれた涙は、今までのぶんを全部含んでいた。

あたし、そんなふうにしたかったわけではない。
ただ、どうしても体が……だめだった。

保健室に来てみたものの、どう説明しようかとドアの前で立ち止まっていると、横に髪が腰まである女の子が来た。見かけたことのない子だったから、驚いたあたしはぐしゃぐしゃの顔を見せてしまった。
その子はあたしの顔を見ても驚かず、むしろ少しほほえんで、「こっち」と言った。

着いて行った先は空き教室。小さな物置のような窓のない部屋に、机とパイプ椅子がぽつんとあった。
彼女はむこうを向いてゆっくりとシャツを脱ぎ、そして、髪をかきあげた。

痛そう。
見たことのない傷に似合う言葉なんて知っているはずもなく、あたしは痛そうとだけしか思えなかった。
彼女は制服を直す、そのときに鍵を落とした。

「あっ」

やっと声が出た、その勢いでスカートのポケットからあたしも鍵を取り出す。

「同じ……」

色違いのキツネだ。小学校のとき、修学旅行で買ったまま、ずっとつけていたやつ。
彼女は鍵を拾って、ピンクのキツネを外した。あたしも水色のキツネを外した。そして、交換した。

何年もつけていたキツネの色が変わると、まるで人の家の鍵みたいだ。
あたしはぼうっとそれを眺めると、スカートのポケットにしまった。

「い」「え」「で」

彼女はゆっくりと、指で書いた。
そうか、家出か……。

あたしが住んだことのない、あたしの元の家のことを思い出そうとする。
あたしは今日、自分の家に家出する。

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