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これっきり、ヨコスカ ~久里浜編~

【おことわり】
続きですが、別に前のは読まなくても大丈夫です。前後のつながりはありません。
あと、観光情報とかグルメ情報だとか地域の素敵な情報などはありません。
それといってとりとめもありません。なんとなく久里浜についておもいだしたことを書き留めるだけで。ごめんなさい。

クリハマってどう読むの。

横須賀の外からやってきた人だとわかる瞬間が地名のイントネーションです。
例えばJR横須賀線の果て。久里浜駅。
地元以外の方だと割とクリハマの発音が違うので、すぐに市外の方だなあと思います。
外の方は、真ん中のリが上がるといった感じで読むことが多いような気がします。
地元の民はわりと平板に読む感じでしょうか。説明が難しい。考えていたら自分でもよくわからなくなってきましたが、とにかく違うのです。
ちなみに市内の地名の読み方だと汐入とかも気になります。
どういう風に違うか、気になる方はお近くの横須賀市民を捕まえて試してみてください。
あるいは横須賀民をあぶり出したいときにでも、どうぞ。

私が京急本線の最果てである浦賀から、横須賀線の最果て久里浜に移ったのは五歳のころでした。
おそらく子供のころの思い出と言えば、この久里浜のことになります。

空き缶を積む

久里浜は住みやすい土地です。
JRと京急と使える駅が二つあり、スーパーもたくさんあり、なにより図書館もありました。
もしかすると近所に図書館がなかったらこんなに本を読むようにはなっていなかったかもしれません。
今思えば、いつでも気が向けば冷暖房の効いた図書館で本が読み放題だったというのはなかなか贅沢だったように思います。
子供にとって文教施設とっても大事です。
もうひとつ、遊び場として無くてはならないのが『青少年の家』という施設でした。
青少年、という言葉を初めて聞いたのはきっとこの施設だったように思います。
野球盤に人生ゲーム、ドンジャラ、オセロ、囲碁将棋、その他豊富なボードゲーム類とそれを広げられるだけの部屋、漫画の揃った図書館、卓球場までついた施設がかつて図書館のとなりにありました。
ここにもかなり入り浸っていたように思います。
この青少年の家で思い出深い遊びと言えば、空き缶を積む遊びでした。
箱の中に入っている、空き缶をひたすら積み上げるだけ。というシンプルなルール。
ある一定のラインまで積み上げると、部屋に張り出してある模造紙に積み上げた缶の個数とその名を刻むことができました。
名を刻みたかったのか、はるかな高みを目指すバベルの塔以来の人間の本能からか、子供たちはひたすら空き缶を積み上げていました。
空き缶を積み上げると言っても、空き缶にもスチール・アルミの別もあり、またへこんでいるものや綺麗なもの、缶同士の嚙合わせなど、違いがあるので案外工夫の余地もありました。
さらに積み上げた後には、受付のおばさまに認定をしてもらう必要がありました。
積みあがった缶の塔を認定してもらうまで崩さないために支える者あり、おばさまを呼びに行くためそろり、そろりと歩く者あり、そして崩れた缶を前にして悲鳴を上げる者あり、缶を積むだけで、そこにはドラマがありました。
その青少年の家(その後名称が変わり『みんなの家』)も施設の老朽化により廃止となったそうです。
最後にあの缶積みの最高記録が何個で、だれがその栄光を勝ち取ったのか、気になるところではありますが、いまや知る由もなく。
寂しい限りです。

怒田城址

久里浜に城跡があります!
というと、たぶん地元の人も首をかしげると思います。
あるいは、聞き方を変えて吉井貝塚はご存知でしょうか、と聞けばある程度の人がわかるかもしれません。それでもほとんど知らないかも。
ちょっとしたお城ファンの私が、初めて行った城跡がこの怒田城跡です。
城跡と言っても、天守閣もなければ、石垣も門も壁もありません。
土塁もないし、堀も言われたらあるような、無いような。
住宅街の中にある椎の木に覆われた緑の丘の中に、ちょこちょこ貝塚と城の説明があるだけという、あまりはっきりしない城跡です。
おそらく初めて行った小学生の夏のころには、城の由緒だとか、三浦一族の興亡だとか、文化財の歴史的価値だとか、そういうものはあまり興味がありませんでした。
ただ、この丘の下がかつて遠い昔に海であったことはだけは知っていました。
かつては、この丘は海に突き出した岬のようになっていて、いま私がその岬の突端に立っていたとしたら。そんなことを想像するのが好きでした。
京急やJRが走っている線路も、悠々と海へと注ぎ込むドブのような色をしたあの平作川も、私の家も学校も、みんなかつては海がすっかり飲み込んでいたのだと思うと、妙に清々した気持ちになるのでした。
今もこの城跡の周りの住所に舟倉という地名が残っています。
おそらく海だったころの名残です。
京急がこのあたりに差し掛かるとき、ふとあの怒田城址の丘を車窓から見上げることがあります。
いつか岬だった土地の記憶と、気持ちの上では岬の上に立っていた私とが、電車の過ぎ去る速度でふと過ります。
土地の記憶と私の記憶とがすれ違う踏切のような場所。
それが、私の地元のお城。怒田城です。

コスモス畑でつかまえない

くりはまの観光名所といえば、くりはま花の国でしょうか。
春にはポピー、秋にはコスモスの花が咲き誇る緑地公園です。
シーズンには畑一面に鮮やかな花が咲き誇るので、家族や友達とも、ときどき出かけたりもした記憶があるのですが、なぜか思い出すのは高校生のときに一人で出かけた日のことだったりします。
それはいつかのコスモスのシーズンのことでした。
秋の暮れ方に、なぜか私は花の国にいました。このときどうしてその場に出かけたのか、どうしても思い出せません。
それはとりとめもなく見た夢のような散歩だったのです。
夕暮れの花畑に、人の姿はありませんでした。
ごく緩い斜面を覆うようにあるコスモス畑。
実を言うと、そこにコスモスはほとんどありませんでした。
その日は、ちょうどシーズンの最終日の花の摘み取り日でした。
おそらく昼のうちに、観光客がやってきて、あらかた摘み取ってしまったのでしょう。
ひと気のないがらんとした畑に、残されたコスモスの茎と葉がそこここに倒れていて、その薄い緑から透いて土がまだらに見えるのでした。
私は秋風に吹かれながら、ぼんやりと摘み取られつくしたコスモス畑だったものを見ていました。
寂しさの中に、妙な居心地の良さがあったのを覚えています。
どうにも私は、にぎやかな中に身を置くより、にぎやかだったことを想像する方が向いているようです。
目を凝らせば、ぽつぽつと、オレンジやピンク色のコスモスが残されていました。
それを家に持って帰ることもできたのですが、摘み取るようなことはしませんでした。
あのコスモス畑の残骸から、綺麗なものを切り取って持ち帰ることに、そのときの私はあまり意味を感じませんでした。
きっと、今であれば写真の一つも撮ったのでしょうが、それもありません。
でも、それでいいのです。
そもそも、だれかと共有したいような景色でも、見てうっとりとするような景色でもありません。
あの頃手軽に写真が撮れなくてよかったと思います。
写真に鮮明に写ろうものなら、おそらくげんなりすること請け合いです。
なにしろ、それはコスモス畑の残骸の写真なのですから。
おかげでその光景を思い出すとき、おぼろげな記憶がぼんやりと夢のように立ち上がり、あの時感じた居心地の良さをもう心の中だけで追体験できるような気がします。
きっと今後、もう一度同じような時期に行ったとして、同じような気持ちにはならないでしょう。
きっと私はカメラを向けて、ごく退屈な情報として、その景色を閉じ込めようとしてしまうでしょうから。

シーグラスと海

浦賀と違って久里浜はわりに平坦な土地です。
駅から海に向かうまでに坂はありません。
また港もあるのですが、浦賀と違って砂浜もあります。
家が海の近くだったので、浦賀の丘の上に暮らしていたころと違って簡単に浜へ遊びに出ることもできました。
といっても海に駆けていって、波と戯れるなどということはなく、もっぱら砂浜でシーグラスを集めるのが楽しみでした。
実を言えば、結構大きくなるまであれがガラスの破片のなれの果てとは知りませんでした。
なにか物珍しい宝石のようなものが漂着しているものとばかり思っていた私は、スーパーの袋一杯にシーグラスを集めて持ち帰っていました。
宝石とはといっても、特に使い道もなく、ベランダの隅で朽ち果てるのが関の山でした。宝の持ち腐れ。あれをその後どうしていたのか、全く思い出せません。
いまでこそ、もうシーグラスを集めたりはしないのですが、大人になった今、日本海くんだりまで石を拾いに行っている自分を思えば、あれが原点だったのかもしれない、と思わないではありません。
それ以外に海と慣れ親しんだという記憶はあまりありません。
そのわりに海から遠くに住むのは嫌だという自分がいます。
近くに住んでいるとはいえ、年に何度も海岸へは出ないし、釣りもサーフィンもしないのですが、なんとなく離れがたいのは海という存在です。
内陸県に移住しないかと言われたら、利便性云々は抜きにしても、なんとなく嫌だなあと思うのですが、例えばそれはベランダで腐れたシーグラスと同じようなものなのかもしれません。
あるからといって何をするわけでもないし、ときどき忘れてしまいさえするけれど、それでも手の届くところにあってほしい。そんな気持ちです。


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