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これっきり、ヨコスカ ~浦賀編~

これっきり、これっきり、もう。

長らくふるさと納税を続けてきました。
そう、それは、ふるさと納税という制度ができるはるか前から。
横須賀市に生まれ育ち三十年以上。住民税の通知が来てからもう十年以上。
生まれ育ったふるさとにせっせと税金を納めているのに、市と来たら海軍カレーのひとつもくれやしません。
かたや私のふるさとに住んでいるのに、名前も場所もよく知らない土地に「ふるさと納税」をしている人が、おいしいお肉やらお魚やらを食べています。
しかもポイントも付くらしい!私だってふるさとに納税しているのに!ずるい!
私は悲しくなり、この横須賀を出ることにしました。
さようなら、横須賀。ついにこれっきり。

海と、高いとも低いともない山と、坂とトンネルしかない町、ヨコスカ。
汐入のダイエーで遊ぶことが日曜日のビッグイベントだった、ヨコスカ。
米軍関係者ばかりが闊歩しているから、この地上のアメリカ人は腕の太さが丸太くらいある方しかいないと思わせてくれた町、ヨコスカ。
観光に来た友人に見せるものも思いつかず、さしあたり戦艦三笠を見ていただいたものの、そもそも日露戦争からしてぴんとこないから、ぴんとこないまま終わる、ヨコスカ。
これっきり。これっきりもう。これっきりですよ。さらば、ヨコスカ。

ごめんなさい。横須賀を離れるのは本当ですが、理由は嘘です。
ふるさとに納税している人に何の特典もない納税制度は大っ嫌いというのは本当です。ポイントもろとも制度自体なくなってしまえばいいのに。
そうでなければ私にも何かください。ほんとうにささやかでもかまいません。
海軍カレーとか自衛隊饅頭「撃」とかでも構わないんです。溜飲が下がります。下がるだけで引っ越しは止めないけれど。

それ以外もだいたい本当のことです。
ちょっと今月は横須賀を離れるにあたり、横須賀の思い出でも振り返ろうかなと思います。
とりとめはありません。有用な観光情報もありません。
いつものことながら悪しからず。

うらが白色のきっぷ

子供のころ、駅の改札にある看板がいつも気になっていました。
「うらが白色のきっぷ」
普通であれば切符の「裏側が白い切符」と読むのが普通なのでしょうが、私はずっと「浦賀(特別仕様)切符」だとばかり勘違いをしていました。
私が生まれてから約五年間を過ごしたのが、京急本線の終点の町、浦賀でした。
真実を知った今でも、うらが、と言われると、どうしても頭の中で、浦賀、と変換されてしまうような気がします。
始発駅の魔力とでもいいましょうか、あるいは単純に自分の中の原初の記憶が見せる幻影なのかもしれません。
「もしかして浦賀って特別な駅で切符も違うのかもしれない」という思いは、自分の中にときどきよぎったりします。
浦賀駅は、うら、という響きからなんとなく想像できるように、自分の中でほんの少し日に陰るイメージがあります。
ほんとうは南側に入江が開けているので、暗いことはないはずなのですが、駅の背後に丘を背負っているせいか、浦賀ドックを囲っているコンクリート塀のせいなのか、どことなく明るいというイメージが自分の中にありません。
あるいは駅の背後の丘の上から見える馬堀海岸あたりの風景の方が明るく見えたので、相対的に暗く見えたというだけのことかもしれません。

タヌキとアオダイショウ

私が生まれてから五年近く住んでいたのが、この馬堀海岸へと打ち寄せる波が見渡せる丘の上の住宅街でした。
住宅街とはいったものの、近くにある鬱蒼と椎の木が生い茂げった空き地にはタヌキが住んでいて、夜になるとときどき家の界隈に顔を出していました。
このころの経験のせいなのか、タヌキにはなんとなく愛着があったりします。なでてみたいとかは、やっぱり思わないのですが。
自然が豊かといえば聞こえはいいですが、どことなく田舎っぽさもあるような町でした。
かといって本格的な田舎ではもちろんなく、浦賀ドックから漂う工業地域のような趣が町を都会めいて見せるわけでもなく、やっぱりなんとなく中途半端な感じのする町。これは浦賀に限らず、ずっと横須賀に住んでいて感じるイメージです。
タヌキ以外に思い出すのが大きなアオダイショウでしょうか。
あるときに見た排水溝の中をゆっくりと這いずるアオダイショウ。
細いというよりはむしろでっぷりとした貫禄さえ感じさせる大きなアオダイショウで、見守っている私や周りの大人たちの視線を感じる気配もなく、ずるずると這いずっていたのでした。
浦賀で暮らした小さな子供の私の心に、タヌキと並んではっきりと思い浮かぶ風景なのですが、その割に蛇はそんなに好きにはなりませんでした。
なぜかしら。わかりません。

失踪

浦賀に住んでいたとき、近所にとても仲のいいお姉さんがいました。
歳は私よりも三つくらい上だったでしょうか。
いつ知り合っただとか、どういういきさつで仲がよくなっただとか、そういうことは全く思い出せず、物心ついたときにはもうすでに、自然とそこにいる存在でした。
浦賀の思い出はもしかすると常にこのお姉さんと一緒にあると言っても過言ではないかもしれません。
あのころはたいていどこに行くにも、そのお姉さんと一緒でした。
わりとおとなしい子供だった私に対して、彼女は明るくて活発でちょっとワイルドで面倒見のいい人でした。
彼女はそのとき三姉妹の末っ子で、私は一番上の子供でしたが、一緒に遊ぶときは私が弟で、彼女が姉のような感じがしていたような気がします。
ある時小さな車のおもちゃに私をのせて、彼女がそれを後ろから押してくれた日のことをときどき思い出します。
その運転が荒いこと、速いこと。
キャッキャッと笑うお姉さんと、アスファルトの上を頼りなさげにガラガラと転げるタイヤの音とを聞きながら、私は車の上でなすすべもなく、どこへゆくとも知れず、ただ振り回されていました。
でも振り回されているだけなのに、それが不思議と嫌ではなくて、結構楽しかったように記憶しています。
おそらく私が三歳くらいのことだったと思います。
あるとき、そのお姉さんとこっそり遠出をしたことがありました。
あるいはこっそりというのには語弊があるかもしれません。
いつも通り遊んでいた延長で、誰にも黙って出かけただけだったので、別に二人で示し合せてこっそり出かけたわけではなかったので。
どういういきさつがあったのかは、今となっては思い出せません。
あるいは聞かされていなかったのかもしれません。
ただ、何か目的があってだろうと思うのですが、あるとき彼女は私の手を引いて子供だけで行ったことのない道をどんどん進んでいきました。
丘を下り浦賀駅を越えて商店街を抜けてかつてはまだ操業していた浦賀ドックの入口の前を過ぎて、彼女が立ち止まったのは保育園の前でした。
距離にしては片道2キロはないといったくらいの距離でしょうか。小さな私にしてはかなりの大冒険でした。不安だとか疲れだとかは不思議と記憶にありません。それだけ彼女を信頼していたのかもしれませんし、単純に遠い昔のことで忘れているのかもしれません。
大冒険のゴールで彼女は何かを言ったような気がするのですが、その内容もやはり、さっぱり思い出せません。
ただ彼女と並んでみた保育園のがらんとした園庭の景色だけは、私の心の中にぼんやりと思い出されます。
保育園の前まで来た時には、日も少し傾いてきていました。
私たちはだまって、またもと来た道を引き返していきました。
どうやらこのときにはもう、私とお姉さんとが消えてしまったことが、騒動になっていたようです。
母が近所の人たちと一緒に私の姿を探し始めたころ、私たちは丘を登り切り、家の前まで帰ってきました。
母は心配していたようですが、私たちは何を心配されているのかよくわかっていなかったと思います。
夕暮れの中に私たちを出迎えた母の姿と、傍らにいるお姉さんと。
あの夕暮れの景色に、私は不思議な世界から帰ってきた手触りのようなものを感じていたようにも思います。
誰も知らないうちに二人だけで見た景色。
たとえそれが、何の美しさも、壮大さもなく、平凡で、意味さえあやふやな景色だったとしても、それは今も私にとって特別なものです。
今もあの保育園の前を通りがかると、なんでもない景色の中に、かすかな異世界の香りを感じるような気がします。
彼女はあのとき何を見せたかったのでしょうか。
しばらくして私は引越してしまい、だんだんとそのお姉さんとも疎遠になってしまったので真相は永遠にわかりそうもありません。
自分と誰かだけが知っている景色の、どことない甘やかさのようなものだけは、どこか憧れのパターンのようなものとして、いまも確かに私の中に残っています。

浦賀ドック

浦賀から消えてしまった景色と言えば、やはり浦賀ドックです。
父方の実家が浦賀にあったので、浦賀を引っ越してからも車で浦賀ドックの前をよく通りがかりました。
渡し舟の渡船場のあたりから、対岸に鈍色の護衛艦の姿が見えていたのを今も思い出します。
今、我が横須賀の町は軍港巡りクルーズを絶賛売り出し中ですが、じつはあまり愛着は持てていません。
それはもしかすると、私の子供のころに見た艦船の原風景が、横須賀というよりは、この浦賀ドックの景色の中にあるからなのかもしれません。
それからさらに浦賀駅の方へと進むと大きな青いクレーンがあって、車の窓からその威容を見上げていました。
私にとっての浦賀というイメージの中で大きな位置を占めていた浦賀ドック。
ごく当たり前にあった景色ですが、失われて幾歳月がたったことでしょうか。
閉鎖が決まった時には何の感慨もなかったのですが、当たり前の景色が失われていくと、案外に私は寂しさを感じました。
がらんとした岸壁。
いつもつい見上げてしまったクレーンもやがてなくなってしまい、いよいよ「ああ、もうないんだ」というため息が心のうちにふと漏れたのでした。
せめてクレーンくらいは残しておいてほしかったなあ。というのが、素直な気持ちなのですが、なくなってしまったものはなくなってしまったのだからいたしかたありません。
思い出はちょっとした贅沢な時間旅行へのチケットと思って、何もない岸壁やクレーンの跡地を見つめれば、いつかあの入江をにぎやかした艦船の姿が、そびえるクレーンの威容がぼんやりと思い出されます。
「浦賀、白色の切符」
白い余白のある切符に思い出のイメージを書き込めば、私はいつでも過去に帰ることができる。そういうことなのでしょうか。
浦賀でなくても、そんなことはできますね。
でも、いまはそういうことに、しておいてください。


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