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深淵の零票確認

今週末は都知事選ですね。
凄まじい数の候補者が出ての大混戦という感じではなく、ただただ掲示板やら政見放送やら選挙戦に混沌が生まれているだけというありさまで、都民の皆様におかれましてはさぞご心痛のこととお見舞い申し上げます。
でも候補者がいるだけましなのかなと思わないことはありません。
我が神奈川県は、昨年の県知事選で知事を四人の中から選ばないといけませんでした。
選挙期間中にうっかり不倫と気持ち悪いメールがばれてしまった現職のおじさまと、原発と基地と党批判を許さない人民の前衛党が推すおばさまと、アイドルユニットの名前を丸パクリした風俗店の看板みたいな党から出てきたお姉さま、あとあの小池百合子都知事との結婚を夢見ながら集団ストーカーに怯えるお爺さまの四択。
わが県の民主主義の栄光はすでにここに極まっておりました。極まって崖っぷちっぽい雰囲気すらありましたが、やはり首都は一味違う。
首都の民主主義はわが県のさらにその先を行かれるわけです。嗚呼。

ところで読者様におかれましては選挙はお好きでしょうか。
大半の方が好きでも嫌いでもない気がします。
国政、地方首長、議員の別もなく、投票率が半分を越えればいい方という低空飛行な本邦です。
選挙が好きという方は少数派であることでしょう。
おそらくものすごく友達が少ないか、ものすごく特定のお友達が多いような気がします。偏見ですけれど。
かく言いますが、私は子供のころから選挙が大好きです。
有権者となる前から、選挙の日曜日には選挙特番にかじりつきで見ている変な子供でした。
現職一強の選挙にブーイングを送り、バチバチの接戦を固唾を飲んで見守り、泡沫候補のぶっとんだ政見放送に苦笑し、勝利陣営の万歳三唱をぼんやり眺め、大物政治家の敗戦の辞をニヤニヤ眺める。
そんな変な子供だった私がそのまま大人になり、選挙権を得てからというものずっとこの目で見てみたいと思っていたことがありました。

「零票確認」

おそらく選挙が好きな方は、この儀式をご存じの方も多いでしょう。
投票箱に一番に投票用紙を入れる者が、その投票箱の中に何も入っていないかを確認する作業。それが零票確認です。
有権者であれば、だれでもこの儀式に立ち会うことが可能です。
方法は簡単。投票日にちょっと早起きして、誰よりも早く投票用紙に記入し、投票箱の前に立つ。それだけです。
それだけなのですが、まあ普通の方にはそのために早起きをするなどというモチベーションが保てるはずもありません。
なにしろ見られるのは投票箱の底だけです。
あのアルミの箱の底を見たい!日曜日は絶対早起きしよう!とテンションの上がる方は少ないことでしょう。
少ないとは思ったのですが、ネットで調べると「零票確認ガチ勢」なる方々もいるようです。変わってますね。
私自身は投票箱の底を見てみたいとはあまり思っていませんでした。
ただ、一点気になることは私の住んでいるご町内に、この零票確認ガチ勢のような方はいるのだろうか。いるとすればそれはどんな方たちなのか。ということでした。
もしかすると、我が町は特殊な趣味の方々が多い地域で、「零票確認ガチ勢」が投票所前に列をなし、西宮神社の福男競争よろしくデッドヒートを繰り広げているかもしれません。
早朝投票所前に集まったガチ勢たちが、体育館の入口に駆け込むと我先に本人確認を済ませ、すばやく投票用紙をつかみ取り、殴り書くように候補者名を記入し、空であることを確認した投票箱の前で歓喜の雄叫びを上げながらその一番福がごとくの輝きを放つ一票を投じているかもしれません。そんなわけないけど。
ともあれ、どんな人がご町内の有権者一番乗りをつかみ取るのか。その模様をこの目で見てみたい。
思ってはいたのですが、なんとなくチャンスを逃し続けていました。
せっかくの日曜日だというのに、投票のためだけに朝七時に間に合うように起きるってなかなか辛いんですよね。
それだけ考えても零票確認ガチ勢という方々の奇特さが思いやられます。
しかし、チャンスは巡ってきました。
さる地方統一選挙投票日の朝、私はなぜか早起きをしてしまったのです!
せっかく早起きをしてしまったからには目撃しに行くしかありません。
投票箱の確認をするためでなく、投票箱の確認をする人を見るために。
私は投票所の開く時間ぴったりになるように家を出ました。
どんな人がいるんだろう。
長年の疑問が解決することに胸を躍らせる私です。うきうきする気持ちから自然と足が速くなります。
会場の小学校の体育館に着くと、そこには投票を待つ人の長蛇の列……というわけではなく、小柄なおばあさんと、小太りの中年男性がパイプ椅子に仲良く並んで座っていました。
周りには係員と思しきスーツの男性ちらほらおり、パイプ椅子に座るお二人となにか談笑しているようでした。
これが、零票確認ガチ勢。
いままで見たこともない朝一番の投票所の光景を目撃したことで、私のテンションは最高潮、とはなりませんでした。
私の計画では投票所に七時きっかりに到着する予定だったのです。
「いやぁ、何にも知らなかったんだけど、なんとなく朝はやくきてみたら零票確認っていうんですか? 珍しい儀式のようすが見れちゃったなあ。いやあ、ほんとうに、何にも知らなかったけど。」
という何も知らなかった風おじさんを装い、特に変わったところのない、ちょっと早起きしちゃっただけの一般的な有権者を装うはずだったのです。
試みは失敗しました。
うきうきで歩いていた私は、うっかり開場の五分前に体育館前に到着してしまったのです。
ここであのパイプ椅子に座る先客の有権者諸君に加わることができればよかったのです。
「おはようございます! なんという投票日和でしょうか! 私は三番目ですね! 一番だと何か貰えたりするんですか! え、貰えないの! 投票箱の底が見れる! それは素敵だなあ! もうちょっと早くくればよかった! あははははは!」
などと明るく陽気に列に加わることが根暗な私にできるはずもありません。そんなことができたら今頃県知事にでもなっています。
結局私はその並んで座る有権者を遠巻きに見守りながら入り口から少し離れたところで突っ立っているほかありませんでした。
朝イチの投票所の前で何か機会を伺うようにうろうろする、怪しい青年。
あれ、これって、めちゃくちゃ、零票確認ガチ勢っぽい?
あるいは、うら若い女性候補にゾッコン入れ込んでるやつにも見えるかもしれません。
いきなり自分がガチ勢か色ボケおじさんかのような怪しさを放ってしまったことにとまどい、それが余計に私の挙動を怪しくさせます。
そんな私の前で、一番乗りを果たしていたお婆さんが「最近はあの方見ないわねえ」などと係員の男性と話しているのが聞こえてきました。
ということはどうやら、このお婆さん常連ということのようです。
つまり、この場において私は完全によそ者ということが確定です。
よそ者だ。よそ者が来たぞ。あいつはだれなんだ。
新顔だから、あれかあの某新人候補の熱狂的ファンってやつか。そうに違いない。なんて気持ち悪いやつなんだ。あんなにそわそわして。プークスクス、プークスクス。
体育館前に集まるスタッフのみなさんや、先客の有権者のお二人も私をチラチラ私を見ながら、そんなことを思っているような気がしてきてしまい、私は恥ずかしさのあまり天へ地へと視線を泳がせていました。
こんなはずではありませんでした。
私は朝イチで投票所に乗り込む変わった人を目撃するためにやってきたのです。
それが、蓋を開ければ、とてつもなく怪しい気配を放つ人間に成り果てていました。
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。そういうことなのかもしれません。
悲しいことに、私に続いてやってくる人もなく、私は不審な男としてその場で永劫のように長い五分を過ごしたのでした。

そうは言っても五分は五分です。
時は流れ時間が訪れます。
係員の方が持つラジオの時報が七時ちょうどを告げると、ついに体育館の入り口が開かれました。
パイプ椅子に座っていたお婆さんが立ち上がり、彼女が一番に体育館へ入る……はずでした。
誰よりも入り口に近く、誰よりも零票確認に近かったお婆さん。
しかし、彼女はとてつもなく腰のまがったお婆さんだったのです。
杖を突き突き、一人であるくことも危なげなお婆さんは係員に手を引かれながら、牛歩よりもより遅く入り口へとすすみます。
もしや、一番乗りは二番手の小太りのおじさんの手に!
と思いきや、おじさんは突然思いもよらない一言を係員に向けて宣言しました。
「投票券、持ってないんですけど」
どうして!
私は内心悲鳴にも似た声をあげていました。
おじさんはガチ勢でもなんでもなく、ただ投票券なくしたおじさんだったのです。
かくして、おじさんは係員に連れられて退場。
三番手の私に順番が回ってきます。
どうぞ、という係員の誘導に促され、私は体育館の入り口を潜りました。
背後にはいまだ入り口前に三段だけある階段を、富士八合目よろしく苦闘しながら登っているお婆さんがいます。
かくして私はついに、図らずも投票所にたどり着いた一人目の有権者となりました。
こんなはずではありあませんでした。
私はあのお婆さんが一番に投票するところを見届けるはずだったのです。
それが蓋をあければご町内でだれよりも最初に投票用紙を受け取った男になってしまいました。
このとき私は投票所の前で不審人物と化してしまった恥ずかしさと、うっかり奇妙な栄誉(?)を手にした歓喜とで半狂乱になっていました。
私は記入所で素早く候補者名を書き入れると誰よりも先に投票箱の前に立ちました。
そして儀式は始まりました。
側面の蓋が係員によって開けられ、鈍い銀色にして空白の深淵が私の前に姿を見せました。
これが零票確認。
うっかり自分が当事者になってしまいましたが、初めての経験にちょっとだけ心がさざめきました。
ただの空箱を中身を見せられただけなんですけどね。
かくして私は投票箱の中身が空であることを確認し、手触りのいいユポ紙を二つに折りたたむと、あまり心躍らない選択であるところの一票を投じました。
さらに続いて県議会議員の方の投票箱でも零票確認の儀に立ち会い、この会場で最初の一票を投じました。
ついにこのご町内の零票確認は私に独占されたのです!やった!やったの?
気分がいいだとか、達成感といったことはとくにありませんでした。
ただこういうものなのかという手触りのようなものだけが私に残されたのでした。
ひと仕事を終えてぼーっとあるきながら会場を後にしようとしたとき、私を呼び止めるものがありました。
振り返るとなぜか慌てたような顔をした係員の男性が立っていました。
彼は顔にびっしょりとかいた汗をハンカチで拭いながら私に尋ねました。
「すみません。お名前とご住所をおうかがいします」
え、住所とか聞かれるの?
私は一瞬面食らいましたが、考えてみれば当然です。
地方選挙とはいえ、マクドナルドの国のドナルドおじさんよろしく、不正選挙だ!と騒ぐやつがあってもおかしくありません。
そうなれば、最初に一票を投じた私に、投票箱は本当に空だったかを問い合わせる必要も出てくるに違いありません。
私は素直に住所と氏名を告げて、係員はそれを紙にメモしていました。

名前、聞かれるんだなあ。
恥ずかしい思いはしたけれど、知らなかったことを体験できたことへの感慨にふけりながら、私は家へとのんびり歩いていました。
その道すがら、どうしてあの二番目にならんでいたおじさんは投票券を持っていなかったのだろうと考えました。
早く着いたのだから、家に戻っても十分間に合うはずです。
単なるずぼらか、そもそもなくしてしまった口なのか、あるいは……。
そのとき私の中にいやな想像が駆け巡り、背筋にひとすじ冷たいものが走りました。

あのおじさんはのんびり歩くあのお婆さんに一番を譲るために、わざと忘れたことにしたのではないか。

おそらくおばあさんは話ぶりからして、この投票所の常連のようです。
実はこの投票所ではあのおばあさんが一番に投票することが暗黙のルールとなっていたとしたら。
そして、あのおじさんはそのことに気が付いて、やんわり順番を譲ったのだとしたら。さらに、私はその暗黙のルールを破ってしまったとしたら!
そう考えると、住所を尋ねた係員が慌てていたことも説明がつきそうです。
もしかすると、私は密かに続いていたこの町のタブーを堂々破った、とんでもないやつになってしまったのかもしれない。
私はおびえました。
頭の中で八つ墓村の濃茶の尼が「たたりじゃあ!たたりじゃあ!」と叫び狂います。
時すでに遅し。住所と名前は係員に告げてしまっています。
大声というわけではありませんが、聞こうと思えば他人にも聞こえておかしくない声量であったはずです。
ともすると、あのお婆さんにも聞こえていたかも……
断片的にでも聞こえていたとすれば、狭いこのご町内のことです。
ちょっと珍しい名前なのでゼンリンの地図でも引っ張ってくれば一撃で家は特定されるに違いありません。
「あのとき、私を追い越して零票確認したなぁ! 出ていけえ! この町から出てゆけぇ!」
と怒りの形相で布団たたきを振り回したり、引越しコールをされるかもしれない……どうしよう……。
どうしてあのとき、冷静になってあのお婆さんに先を譲らなかったのか……。
もういまや私にとって選挙の結果も零票確認もどうでもいいことでした。
あのお婆さんに特定される。仕返しされる! 怖い! こわいいいい!
私は後悔と報復の恐怖に怯えながら、しばらく暮らしたのでした。

そういうわけなので、私はもう二度と零票確認には立ち会いません。
みなさんはこれを読んで確認したいと思われたでしょうか。
もし挑戦したいと思われた方がいらっしゃるようでしたら、私からのささやかなご忠言です。
なにはともかく挑戦される際にはきちんと地域の風習をお確かめください。
投票箱の深淵をのぞく時、ご近所の深淵がまたこちらをのぞいているかもしれません。

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