勝手に見守り隊を本当に勝手にやってる僕の話

僕の部屋の両隣は齢80を超えた一人暮らしのおばあちゃんたちだ。
田舎生まれ田舎育ち、近所のおばあちゃんたちのお節介に塗れて育った僕は、日々勝手に見守り隊と言うのを一人で実行している。

今日は僕の部屋のベランダにかけてあるネットにぶら下がってた右隣のおばちゃんちへ行ってきた。
僕が引っ越してきた日に一番に覗きにやってきてからの付き合いで、去年くらいに脳出血をやって片麻痺になり、ヘルパーさんや親族の方にお世話になりながらも一人暮らしをしてるおばちゃんだ。

関係性は「おばちゃん」と「あんた」。

移動がタクシーになり、到着したタクシーに間に合わず置いて行かれたところを僕が発見して、タクシーを呼んで到着まで2人で語りながら待ったこともある。当時おばちゃんはスマホを持ってなかった。
スマホを買ってからも使い方がわからず、妹さんとまごまごしているところに出くわしてこうやるんだよと説明したこともある。

今朝は目が覚めるのも早く、結構物忘れがひどい僕がふと洗濯物の存在を思い出して朝からおばちゃんちに突撃した。
片麻痺になってからおしゃべりのおばちゃんの言葉は聞き取りづらくなった。それでも一生懸命話しているのはわかるから、ちゃんと聞いてもう一つギリギリラインにひっかかっておばちゃんが取れなかった洗濯物も取りに行き、家にたくさんあったスポーツドリンクを渡し、「熱中症になるなよ」と扉を閉めた。

僕が育った地元は老人だけ世帯というのは少ない。
大体自分の子供が2人以上いて、誰かは家に残るか近所にいて、マメに両親の家に行ったり、孫の守りを頼んだりして田舎特有の「誰かの目の届くところ」に老人世帯が存在する。
都会に引っ越してきて、僕が経験してきた環境とは全然違うことを目の当たりにした。狭い独身用マンションに老人が一人暮らしは当たり前だった。

その人達が倒れたら、死んでしまったら。

前に女性の死に方と言う漫画で孤独死についての回があった。
一人で家で旅立った女性を中心に孤独死とはどういうものかというのを考える回で、僕も真剣に読んだ。
せめて両隣のばあちゃんたちには僕と言う話す相手がいて、何かあったら動ける存在の僕がいて、本当に一人という存在で旅立たないように、僕の気持ちは動かされた。

ほんのちょっとでもいい。
廊下ですれ違った時でもなんでも声をかけよう。時間があるときでもいいかから。
おばちゃんが話したいのは、普段話す人がいないからかもしれないし。
僕だって溜まった話を友達に聞いてもらってすごく気持ちが楽になるときがある。一人で鬱屈と生活しているとは限らないけれど、それでも挨拶と今日の体調はどう?くらいでも聞いて、そこから話が広がって、自分の時間があればばあちゃんたちの話を聞くのも人生勉強じゃないか。

僕の気持ちはそう変わった。

都会でも都心からはちょっと離れ、商店街がある住宅地の小さなマンションで、田舎生まれ田舎育ちが培ったこのお節介精神がほんのちょっとでも役に立って、ばあちゃんたちに何があっても幸せに暮らせたなって少しでも記憶に残る人間になれれば僕はそれでいい。

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