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続「通貨というもの」

 江戸時代になり、社会が安定してきたおかげで、いろいろなインフラが整備できるようになってきた。交通、流通、そして、貨幣経済である。

 とはいえ、経済の基本は「年貢米」であることは変わらなかった。
 豊臣政権時に「検地」を行い、田の広さを基準に収穫量を予想し、それによって年貢を決定したのは、やはり「米」というものが経済単位として扱われていたということになるだろう。

 では、他国ではどうだったのであろう?
 西欧諸国の税制は、「麦」の収穫を中心に考えていたのか?
 それは違う。とっくに貨幣経済が発達していたのである。古くはローマ帝国時代、すでに「貨幣」での経済が発達している。多くの金貨、銀貨も発掘されている。そういう意味では、我が国は大いに「貨幣経済」は遅れていたといってもいい。

 それには、やはり理由がある。他国との流通、交易が少なかったためである。それこそ、物々交換で成り立つ程度の経済交流であったため、貨幣経済が発達することもなく、鎖国体制に入ったため、貨幣経済が発達しはじめた江戸時代には他国との交流も一部となり、独自の貨幣経済が成り立っていった。

 江戸時代は、基本的に「インフレ」ということはなかったそうだ。それは、やはり「米」の相場が経済の中心であり、米価が上がれば、生活は苦しくなり(貨幣経済は、相場がないため)、米価が下がれば、生活は楽になる。

 貨幣経済の相場の観念が薄かった証拠は、小判の鋳造の金の比率、もしくはいわゆる「100文銭」の信用度のなさが、証明してくれるだろう。

 日本の貨幣経済が、本当に発達するためには、江戸時代を終え、海外との交流が自由になる幕末および明治まで待つことになる。
 初めて、そこで、日本は貨幣経済との出会いをむかえることになるのであろう。