見出し画像

好きでPTA会長をしているわけではない

 私は、娘の小学校のPTA会長をやっている。3年やって、3年休んで、今は2期目の2年目がはじまったところ。

 世の中で、PTAっているの?めんどくさい!やりたくない!という声をよく聞くし、実際、保護者の方のPTA活動に対しての理解は低い。
 私が1期目?3年間で行なったことは「徹底的に、無駄な行事を省力化する」ことだった。
 PTAの目的はなんぞや?
 答えられない人は、「面倒くさい、やりたくない、仕事と両立できない」などと、逃げる。
 私にとって、一番不思議なのは、入学式、参観日、運動会、学習発表会、卒業式など、学校行事になると、保護者は集まるのである。「面倒くさい、やりたくない、仕事と両立できない」なんてこといわず、仕事を休んでまで、学校に来るのである。
 私は逆で、参観日も、運動会も、学習発表会も、妻が行くなら仕事をするし、入学式、卒業式も、本人が列席を望むなら「行こうかな?」と検討する。そのあたりは、学校と妻にお任せである。
 まあ、PTA会長として出席しなければならないので、行くことになるのだが…。

 本来、PTAの目的とは、とってもシンプルなのである。
「家庭と学校が一致協力して、子どもたちの教育を行なう」
 ということ。それだけ。たったそれだけ。

 最初にPTA会長になった時、校長先生に聞いてみた。
「PTAとは、学校にとってなんなんですか?」と。
 校長先生は、すぐにこう答えた。
「学校の応援団であってほしいです。」と。

 学校教育の目的とは何ぞや?
 読み書きそろばんを教えること?協調性を教えること?
 それは、自分の子どもに、生きるための「思考方法」を教えているだけである。集団化した時のルールを体感する場所である。力を合わせて何かを成し遂げることを知る場である。世の中の仕組みを教える場所である。

 でも、正直言って、学校教育よりも、家庭教育のほうが重要だと考えている。
 家庭教育では「モラル」「道徳」「生き方」を教える。キュウリのつるには茄子はならない。蛙の子は蛙。結局、保護者自身が、自分の身をもって、言葉をもって、子どもの教育を行なわなければならない。
 それは、学校教育では出来ないことなのである。

 その学校教育で出来ない理由も、単純なことである。
 自分の子どもと、他人の子どもでは、個性が違うし、均質化できないのである。昔、よくこんな言葉を聞いた。

「よそはよそ。うちはうち。」

 たったこの一文で、自分ちの子どもの個性を、親が尊重して教育することの重要性があらわされる。学校教育は基本的に「平等」であるが、乱暴な言い方では家庭教育は「不平等」でいいのだ。その子の個性を花開かせるために、親の教育力が試されている場でもある。

 だから、学校教育+家庭教育で、子育て、教育が完結するのである。

 その接合点が「PTA」なのである。
 学校と保護者が単独で協力(反発)するのは少し無理がある。学校では平等、家庭では不平等「よそはよそ、うちはうち」であり、学校教育にも限界がある。
 保護者にそれぞれ事情があるのに、それに各個対応していては、本来の学校教育に、負荷がかかりすぎる。学校はサービス業ではないのだ。教育機関なのである。保護者に心地よく過ごしてもらい場所ではない。子どもたちに学業や集団性、組織(いわゆる団結力)、読み書きそろばんなどの「考える能力」を高める、場所なのだから。
 そこで、「PTA」という結節点(クッション)があることで、親と教師が一緒に集まる機会が生まれる。それによって、より効率的効果的に「学校教育と家庭教育」の融和を目指せるのである。そして、保護者の声を一度「PTAからの意見」として投げかけることで声が大きくなり、学校側と初めて前向きな対話ができる。協調して問題を解決できる糸口が見つかる。

 私は、縁あって、小学校のPTA会長を引き受けたが、1期3年やった時、それに気が付いた。

 当時、仕事が多忙になる予定があり、4年目からは離れたが、やはり、自分の子どもがいる限りは、公立小学校で「学校教育と家庭教育」の融合を目指してゆけば、より一層、故郷三原にとって、素晴らしい人材教育になる助力ができるのではないのか。

 それが、私がPTA会長をしている、最大の理由である。

 人づくりはまちづくり。子育ては、自分育てでもある。大人こそ、子どもの目標となる存在でなければ、子どもはどうやって次世代に「何か」を伝えてゆけるのだろうか。なんだかんだ言って、「親の顔が見たい」「子は親の鏡」なのである。そして、その子たちが将来「親」になってゆくのである。

 私も完全な人間ではない。でも、自分の子ども達には「これだけは!」ということが何点かあり、それは家できっちりうるさく言っている。

  ただし、私自身が個人主義であるので、子ども達にもそれを適用する。個人主義は、民主主義の基本。自分の主張と他人の主張を両方生かすことができるのが、本来の民主主義の在り方なのである。

 個人主義者の子育ては、最初は抱きしめ、立てるようにして、自由に歩けるようになったら、少しづつ社会のモラルを教えてゆく。
 それは本当に基本的なことだけであり、あとは子どもの個性を観察しながら、無理強いさせずに、伸びるための助力をする。それが個人が個人になるための「独り立ち」のための家庭教育であるし、最終的には、「自分の事は、自分の頭で考えて、自分の行動に、自分で責任をもてる」人間になってほしいと思う。

 最後に大事なことは「自分の行動が、人のためになるために」。
 子どもに、そんな大人になってほしい。自分もそうありたい。
 そう思えば、いいわけなんて要らない。

 だから、私は「好きでPTA会長をしているわけではない」のである。
 仕事と同じく、私なりの「ノブレス・オブリージュ」なのである。
 ノブレス・オブリージュの意味は、分からない人にはわからないので、興味があればご自分で。