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科学を信じるのはむずいのに

だいぶ前にYouTubeで地球平面説を信じる人々というのを観た。動画のコメント欄では平面説を信じる人々を馬鹿にするものが多かった。

僕は、『地球が球体かどうかを僕は計算できない。だからどっちか分からない。球体であることを無謬に信じる僕と、(彼らも無謬かもしれないけれど)考えて平面説を信じるに至った彼らではどちらが馬鹿なのだろう』とカッコいい顔してコメントした。そしたら返信があって、今日まで積み上げてきた科学を否定するのですか?というコメントが来て焦って自分のコメントを消してしまった。

僕も科学は信じる。けれど結局僕が信じてる科学って教科書に書かれてたとか偉い人がそう言ってたとか論文があるとかであって、自分で虚実を確かめたワケではない。科学というよりなにかの権威を信じている。

いちおう僕も愚かな常識人ではあるから球体説を今は信じてはいる。どちらか分からないからといってゼロベースになっていてはなにも進まないからね、とかそれっぽいこと言ってるけどそれはそれだと社会生活が立ち行かなくなってしまうというすごく凡人の理由でしかない。

自分で確かめるのは車輪の再開発かもしれない。そういう手続きを踏まない人は効率が良いかもしれない。

でも明日、地球平面説が科学的に証明されましたとニュースに流れたとして、どれだけの人が抗えるだろうか?。大きい声で「違う!」と言う?大きい声で「違う!」と言えばいいワケじゃないんだよ。

状況証拠的には違うと言えるかもしれない、でも科学的には計算できない。科学的計算結果を見せられたところで僕は理解できないし。博物館の展示物の、説明書きを読んでもイマイチよくわからないツボのカケラを眺めているときのような、それなりの頷きしかできない。そういう不甲斐なさってあるじゃないですか。人は自分で見定めた正しさに生きるなんてのはほんの一握の領域のコトであって、ほとんどは誰かの、社会の、目下の正しさに従わざるを得ない情けない状態にある。僕はそれを言ってカッコいい顔したかっただけなのに圧のある反論コメントしてくるからなんか焦って消してしまった。

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