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もやしとキャベツの味噌汁

あるテレビ局に仕事に行った時のこと。
昼食をそこの食堂で食べることになった。
一緒に来ていた人に
「ここのメシはあんまり期待しない方が良いよ」
と言われていた。

私は、流石にこんな大企業の社食がクソまずいなんてことはないだろう。大企業の割に、ってとこなんだろうなと思っていた。

そして社食の食堂に着く。外観は普通の一般的な社食だ。土曜日だからか活気は無い、というか私たち以外誰も居ない。本当にやってるのか?という雰囲気。
カウンターの中にはおばちゃんがひとり、生気なさげに弛緩して立っていた。

私は日替わりの鶏肉にチリソースがかかったやつを頼んだ。
おばちゃんは容器から鶏肉を一枚皿に乗せソースをサッとかけ、付け合わせの野菜を乗せてこちらに寄越した。

見た感じは普通だ。

そしてご飯と味噌汁を貰って席に着き、いただきます。


鶏肉。
常温。ソースも同じ温度。味は普通。

付け合わせのブロッコリー。
冷凍のやつを自然解凍で戻したやつだから噛んだ瞬間ブロッコリーだけでは保有出来ない大量の常温の水分が口いっぱいに広がる。

ご飯
少し乾いてる。

味噌汁
もやしとキャベツの味噌汁。
具が少ない。


軽くて割れないやつ。

怠惰だ。と斬り捨てるだけなら簡単だ。

今日の日本の東京の更に都心のテレビ局という資本主義の権化のような場所で、そのなかにある食堂で出される競争原理が一切働いていない社食、これが意味するものはなんだろう。

そう、これを怠惰と見なす者こそ資本主義のイヌなのだ。世間に流布している主義を盲信している怠惰な人間なのかどうか、試されているのは私たちの方で、それを陰から彼らは見ている。

テストなのだと考えてみれば辻褄は合う。
そうやって見つめ直すと確かにちょっとおかしなところがあるのに気づく。

もやしとキャベツの味噌汁というのは貧困のメタファーなのだが、具が少なすぎるのだ。
これは大袈裟過ぎてリアリティが無い。貧相な具が沢山入ってる、が正しいはずだ。

だがこれはイージー問題、人為的な過ちの設置、チュートリアル的問題。

ではそのほかはどうだ。

鶏肉の冷たさは経済の停滞と共同体の崩壊。
ご飯の乾きは水資源の減少。
ブロッコリーは地球温暖化による北極の氷の溶け出し。

この社食、ひとつひとつで見ればただのクソまずい怠惰の塊でしかないのだが、それらすべて合わせると意味が生まれるような仕組みになっている。

味どうこうよりもその極めて政治的、風刺的な色合いに私は重要な意味合いを見出しそれに縋り、ブロッコリーを一個残しただけで食べ切ることが出来た。

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