なんで死にたかったんだっけ

去年、29歳のわたしはずっと死にたかった。


都内でひとり暮らし。猫が1匹。

仕事は中小企業の小売店。
残業代なしボーナスなしで、常に人手不足。
根性論が好きでやる気搾取、時代錯誤な昭和気質オーナー。
少し専門的な業務だったため、新人が入っても育つまでに時間がかかる。
だけど、やっと半人前くらいになったところで辞めてしまったり、そこに至る前に業務の大変さでやめてしまう。
離職率の高い職場だった。

そんな状況なので就業時間が長くなったり、休みが少なくなったりしていた。

店長はいい人だったけれど、あまり仕事ができるタイプではなかった。
プレーヤーとしては動けるけれど、マネジメント能力が低くお店をうまく回すことができなくて、いつもそれをフォローするのがわたしの仕事だった。

新米店長だったからしょうがないけれど、自分より年上で職歴も長いのに仕事ができない、そのことにいつもイライラしていた。

興味があってやってみたかった職種だったけれど、それ以上にその職場の体制が自分と合わず、ストレスが溜まる一方だった。

なぜか身体だけは頑丈だったので体調を崩したりすることはなかったが、心は常にぼろぼろだった。


休みの日はお昼近くまで寝て、起きる気力もなにかする気力も起きずただぼーっと過ごす。
とにかくなにか食べたくて、おなかがいっぱいでもお菓子やら食べ物を探して食べまくる。
所謂、過眠、過食の状態。

好きなアーティストのライブに行くのが趣味だったが、ライブ当日に会場に向かっていてもわくわくしない。今までそんなことなかったのに、感情が動きづらくなっていっている自分が怖かった。

ライブが始まってしまえば楽しく最高な時間を過ごせた。
大好きな人が目の前で歌っていてくれる、今日まで命をつないでこれて良かった。本気でそう思った。

だけどまた日常ははじまる。楽しくない、逃げ出したい日常が。

わたしはそのころから、「死にたい」とつぶやくのが癖になっていた。
それは、本気で死にたいわけではなくって、「疲れた」っていうくらいのテンションだ。

現代人だと、そのくらいはよくある話だろう。

そんな鬱々とした日々を過ごしていたある日、仕事の帰り道。
駅のホームに「人身事故の為、運転見合わせ」の張り紙が出ていた。
普段のわたしなら、みんな電車止まっちゃって大変だなあくらいにおもったはずだ。(その感覚も異常なんだけれど)

しかし、その日のわたしは「わかるよ、飛び込みたくもなっちゃうよね。死のうって覚悟してたわけじゃなくても、吸い込まれるように飛び込んじゃったのかもしれないよね。」とおもったのだった。

そっち側の気持ちになったのはその時がはじめてだった。
どんなにしんどくても生きてればなんとかなる。最悪逃げればいいとおもっていたわたしが、そういう考えに陥ったことに驚いた。

そして、飛び込んだその人がどうか浄化されますように。
やっと苦しみから解放されて楽になれますように。
と願っていた。

もちろん人身事故はすべてが飛び込みではないし、転落事故や接触事故の場合もある。
ただ、その時のわたしはそういう風にしか捉えられなかった。

そういった思考になった時点で、わたしはいよいよやばいなとおもった。
多分、普通の状態ではないと。

なにか変えなければ。とにかく現状を抜け出さなければ。

そして、仕事を辞めることにした。

数日後、オーナーに仕事を辞めたいと申し出た。
人手不足だし役職の付いていたわたしはすぐ辞めることはできないだろうと思ったが、最短で辞めたいと自分の気持ちを伝えた。

案の定、今すぐ辞めるのは無理だということだった。
妥協案として、3か月後と伝えるとそれも厳しい、と。

今ならそんなことは知らん、その先なんとかするのがオーナーの仕事だろう。とおもうのだが、真面目で謎に責任感の強かったわたしは、半年後どれだけ人が足りなくともそれ以上は絶対に伸ばさないという約束でそこまで働くことにした。

そこからが本当に大変だった。
もう辞めると決まっているので、仕事に対してのモチベーションはほぼ無く、その状態で日々業務をこなすことはかなり苦痛だった。

性格上、適当にやりすごせばいいやなんて楽観的にもなれず、仕事は真面目に取り組んでいたし、なにせ退職が半年先のことなので、職場のモチベーションを保つために他のスタッフには辞めることはまだ伝えていなかった。職場の士気を下げないように振る舞うのも大変だった。

誰かに助けてほしくて、この現状から救い出してほしくて、だけど助けてなんて言える人がいなくて。
助けてって言ったところで、誰かがわたしの代わりに仕事に行ってくれるわけでもないし、お金をくれるわけでもない。生きるためには自分でなんとかするしかないんだ。独りぼっちだ。

夜中、涙が止まらなくなって過呼吸になった。
このまま死んでしまえばいいのに死ねないんだろうな、と上手く息ができない中でぼんやりとおもった。
大切な猫がいるのに、あなたのために生きられなくてごめんね、と言いながら余計に涙は止まらなくなった。

それからというもの、仕事に向かう途中で悲しくないのに突然涙が出てきたり、帰り道泣きながら電車に乗ったりすることが度々起きるようになった。

青空をみるのが嫌だった。すがすがしい青に嫌気がさした。
曇っている日のほうが息が深く吸える気がした。

もしかしたら鬱とかそういうものになりかけてたのかもしれない。
病院には行かなかった。
なにか診断されたところで、実家送りになるのも嫌だし病院代がかかるのも嫌だった。

年々時間が経つのが早くなるというけれど、去年のわたしはとにかく早く時間が過ぎろと、そればかり願っていた。

そのころ、わたしには付き合ってないけれど関係を持っている人がいた。
もともと友人だった人で、わたしが唯一自分の弱みや悩みを話すことができる人だった。
育った環境も性格も似てないけれど、なにか近い暗さを感じてわたしはその人のことが好きだった。

その人には仕事の悩みなんかも話すことができたけれど、やっぱり自分が本当につらいときに助けてとは言えなかった。

そして、ちょっとした出来事があって、その人との関係が終わることになってしまった。
他にも遊んでる人がいた、とかそういうありきたりなやつだ。
身体の関係はやめても、縁は切りたくない。と言われて、わたしはうまく自分の気持ちが整理できなかった。

もともと人と仲良くなることが苦手なわたしは、大人になってからできた貴重な友人で、友人としても大切におもっていた人と縁がなくなってしまうのは寂しいなとおもった。

だからその人の言い分をのむことにした。

その人は定期的に連絡をくれたりしたけど、気持ちを割りきれないわたしはそれすらもしんどくなっていってしまった。


どうしてわたしは人とうまく関係を築けないんだろう。
30年近く生きてきて一向に生きるのが上手にならないんだろう。
仕事も人間関係もだめでわたしはぐちゃぐちゃだった。

もういいかな、生きるの。
20代で人生終わりでいいや。
もう楽しいことも辛いことも充分経験したし。
そうだ、終活をしよう、とおもった。
30歳まであと半年、それまでに身辺整理をして極力周りへの負担を減らして誕生日の前にこの世を去ろう。本気でそう考えた。
猫のことだけが気がかりだったが、それ以上にもう生きていたくなかった。

このnoteに登録をしたのがそのころだった。
20代の終活の記録を残しておこう、とおもって立ち上げたはいいものの、ひとつも記事を書くことなく今に至ってしまった。

終活について調べてみると、意外とポジティブな理由で若いうちから終活する人が一定数いることを知った。

このことはわたしにはいい発見だった。
終活をすることが悪いことではない、ということが少し気持ちを楽にしてくれた。

このころのわたしは、終活することが生きる楽しみになっていた。
なんという矛盾だろう。
身の回りを片付けて身軽になっていくことが楽しくなっていった。


そんな時、家族で旅行にいくことになった。
わたしはなんとなく、これが最後の旅行になるのかなと少し感傷的になっていた。

初めての土地で綺麗な景色をみたり、おいしいものを食べたりした。
なんかいいなあ、ここではわたしは何も求められていない。
ただ生きてるだけでいい、なんでもないことで笑いあってるだけでいい。
家族ってなんていいものなんだろう。
離れていても、こうして会えば時間も距離もなくなってずっと一緒にいるみたいに過ごすことができる。

わたしには何もないとおもっていたけれど、まだ大切なものがあった。
わたしを大切におもってくれている人たちがいた。

そのことに気づいて、海辺のきれいな朝日のなかで、わたしはもう少し生きてみてもいいかな、とおもった。
静かな朝の海がきらきらしていた。


東京に戻ってきて、わたしは終活ではなく就活をはじめた。
11月。仕事を辞める日までやっと2か月を切ったところだった。

腰を上げるまでに時間がかかったが、動き始めると猛スピードで物事は進展し、面接1社目で次の仕事が決まった。

今の仕事の引継ぎやらも無事に終わらせることができ、ようやく退職までこぎつけた。
長かった。しんどかった。でもなんとか年末を迎えることができた。

次の仕事が始まるまでに少し日にちがあったので、久しぶりにお正月を実家で過ごすことができた。
家族とのんびり過ごし、地元の友人と遊んだりして、有意義なリフレッシュ期間になった。

夜、母とふたりで食後のお茶を飲んでいた時に、実は去年結構やばかったんだよね。という話をしたら、「あんたはそういうのいつも後から言うんだから。もっとはやく言いなさいよ」と言ってくれた。
母は明るくて、そういうことも必要以上に深刻にならないように捉えてくれる。そんな母でよかった。ありがたかった。

そのころには、もう死にたいとは思わなくなっていた。
東京に帰ってきて、新しい仕事も始まり、幸いなことに職場の人たちはいい人たちで今のところ上手くやっていけている。

転職するにあたって、わたしが重要視したことは、
1、職場が近いこと(今は電車で2駅、かなり通勤ストレスが減った)
2、早い時間に仕事が終わること(16時に終わるので、朝は早いけど1日の自由時間が増えて有意義に過ごせる)
3、必ず週休2日(不定休だけど、土日も月1~2回は休みを取る)

このみっつである。

働くにあたって如何にストレスを減らすか。
わたしがどうしたら生きやすくできるのか。
多少収入が減ったとしても、わたしにはこのことのほうが大切だった。

とにかく自分主軸で生きること。
会社のために生きているわけではない、仕事は生きるための手段だということ。

死にたかった、人生のどん底みたいな日々を抜け出して、今もまだ試行錯誤しているけれど、なんとなくたのしく生きれるようになった。
大変なこともイライラすることもあるけれど、まあいいやと受け流せることも多くなった。

友人だった彼とは、自分がいつまでもその人に囚われて前に進めない気がして、縁を切ることにした。
ちゃんとお別れしたら気持ちがすっきりするかとおもったが、どうやらそんなに単純ではなく、まだ時々胸が痛む。きっと時間が解決してくれるだろう、とそっとしている。

職場が忙しく、必死に仕事を覚え怒涛の日々を過ごしていたら、桜も散り夏の気配が近づいていた。

30歳の誕生日には、家族や友人がお祝いをしてくれた。
わたし、生きててよかったんだな。
そうおもえたことがうれしかった。

わたしは、29歳の死にたかったわたしのことを否定しない。
あの時の気持ちは本当だったから。
生きたい、と願うことが尊いとされるならば、死にたい、とおもうことも尊重されるべきだとおもう。
その気持ちだって自分の大切な感情だ。

だけどやっぱり自分の大切な人がそう思っていたら、そういう気持ちをもったままでもいいから生きていてほしいと願うとおもう。

なにもできなくても、いろんなものから逃げてもいいから、ただ生きていてほしい。それだけ。

この世に生きている意味なんてないかもしれない。
そんなものはわからなくてもいい。ただいてくれるだけでいい。


だから、わたしは自分にもそう言ってあげることにした。
死にたかったけど生きていてくれてありがとう。

いつか、あの時なんで死にたかったんだっけ。とおもえる未来がくるといい。

20代最後の日々のこと、必死で生き抜いたこと。
全部忘れてしまったっていい。
この身体がここに在ることが、その証だから。

今、この瞬間しかわたしたちは生きられない。
そのことだけは忘れないで、わたしはわたしの大切なものを抱きしめて生きていきたい。


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