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ゲーム・オブ・スローンズの面白さの再現性について

考える。
まず大前提として、僕はゲーム・オブ・スローンズが好きだ。
ゲースロに影響を受け推理有りラブコメを書き(!?)
コミカライズまでしていただけた。

ゲーム・オブ・スローンズは僕の成功の母である。

そのゲースロの面白さの本質を、今更ながら言語化しようと思うわけだ。

で、その本質は、微に入り細を穿つ、容赦のなさ、であると思う。密度と言うのが適切かもしれない。容赦のないシーンの密度がとにかく高い。

特に印象に残っているのがレッド・ウェディングや、オベリンが頭を握りつぶされるシーンなどだが、それ以外にも容赦のないシーンが随所にあったという印象だ。

で、創作者のはしくれとして思うわけですよ。

これ、プロット先行型に書けるの? って。

創作には大きく、二つの派閥があると言われている(と、思っている)

それは、緻密に、先々まで話の展開を決めてから書く『プロット先行型』と、

その場のノリ、雰囲気、流れなどを重視し、物語を書いていく『流れ重視型』だ。

ちなみに私はプロット先行型で、大体の流れを決めてから書く。
(唯一の例外が、『俺の高校が~』で、それ以外は基本最後まで固める。『小説投稿サイト~』は六章まではガチガチに固め、残りはふわっと、最終章はノープロットで書き始めた(この理由はいつか書く))

で、プロット先行型である自分は、自身を顧みて思うわけですよ。

プロット先行型は書きたいシーンが先にあり、そこまで辿り着く辻褄を合わせるプロットを練るので、目的のシーンは劇的になるかもしれないが、そこまで辿り着くシーンで、空洞化が起きやすい、と。

少なくとも自分はそうなんですよ。(なんなら狙ったシーンも劇的にはならない)

一部天才はプロット先行型でも全編濃密に書けるのかもしれないですが、少なくとも自分には無理なんですよ。

で、そこでですよ。
要はこれ、全編濃密が不可能なのは、自分の脳のスペックの問題なんだと思うんですよ。人間出来ることなんて大きな差なんてないじゃないですか。
薄く長――くストーリー練ってる人と、その場その場で厚めに短く練る人の、創作している物語の『体積』ってあまり変わりないんじゃないかなって思うんですよ。

でもプロット先行型は作ったプロットを大切にするあまり、その話数話数で全力出せない現象が生じているのではないかなと、それだと濃密には出来ないんじゃないかなと、思うわけです。

で、だからこそ、ゲースロみたいな密度の話を書きたいなら、自分の場合、流れ重視派に鞍替えすることこそが、重要なのではないかと、思うんですよね∼。どうなんでしょう。

ちなみにHUNTER×HUNTERの冨樫先生もどちらかといえば(私で言う)流れ重視派なのではないかという考察もYouTubeとかにありますよね。

私も冨樫先生は流れ重視派なんじゃないかなと思います。

やはり流れ重視派じゃないとダメなのかな?

わからん。

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