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移動する疫病神

昨今の状況から「疫病神」ついて考えることが増えた。一般的に言う「疫病神」は「厄病神」とも表記するため、病をもたらすだけの神ではなく「貧乏神」と同じ不運をもたらす神のような扱いであり、「穀潰し」と同義に使われることもある。

しかし、疫病というものが身近になった今、SNSでの妖怪「アマビエ」「アマビコ」の流行のように、近世以前の人々が流行り病を恐れ信仰に救いを見出した事実を、より現実味をもって感じられる。疫病への恐怖の経験が「疫病神」という言葉への忌避の感覚を拡張させ、口碑として今に伝わったのではないか。

では、疫病に対する十分な対抗策を持たなかった近世以前の日本人は疫病をどのように捉えていたのか。その一部は信仰史から窺い知ることができよう。

奈良時代に成立した『養老律令』に含まれる「神祇令」、およびそれを下地とした10世紀成立の『延喜式』では、疫神(えきじん)を退ける国家祭祀として「道饗祭(みちのあえのまつり・どうきょうさい)」がある。
「道饗祭」は都の四隅で道の神を祀り、疫神(鬼・魑魅魍魎)の侵入を阻む祭りである。

『続日本紀』によれば、735年、大宰府(福岡県)で疫病が流行したため、山口県から都までの国々で「道饗」を行っている。その後、770年には都の四隅と畿内の十堺で「疫神を祀らしめた」とある。
前者の例は、大宰府で発生した疫病が道を通って都までやってくるという当時の感覚をよく表している。後者は『延喜式』の定める「道饗祭」と解釈が異なり、疫神そのものを饗応し祀ることで「お引取りいただく」という信仰だろうか。

11世紀成立の『大日本法華験記(本朝法華験記)』には、熊野地方(和歌山県)で行疫神(ぎょうえきしん)が道祖神に先触れをさせ、国内を巡る話がある。この説話での道祖神は廃れて落ちぶれた存在であり、本来は行疫神を防ぐ立場であったが、逆に使役されてしまっていたと考えられる。

つまり、
・8世紀の「道饗」は道の途中で疫神をもてなし、食い止め、退却を願う祭りであった。
・しかし10世紀までに年中行事として祭祀の時期と場(都の四隅など)が固定化したため、道の神が祭神として置かれるようになり、道の神の加護によって疫神を防ぐ祭りに転化した。
・11世紀までには「道祖神」が疫病を防ぐ道の神として京を離れた地方へも信仰を拡大していた。
と言える。

以上のように祭祀と神の解釈に信仰上の変化は見られるものの、疫病を疫神として擬人化(神格化)し、堺を越えて道伝いに疫病が侵入してくるという感覚は、人と人との間に発生する「伝染」という現象をある面で現実的に捉えている。

疫病が突如発生するものではなく、道を伝ってやってくるという感覚は中世にも繋がり、絵巻物に描かれる疫神もこの系譜を引く。

14-15世紀に成立した『融通念仏縁起絵巻』に描かれる疫神は、諸本によって姿は様々だが、律儀に家の門から入ろうとしている点が共通する。
絵巻は念仏の功徳を説くものであり、このシーンで描かれるのは、家の中に入ろうとした疫神が、「我が家は念仏法会を行う信心深い者しかいない」と主人に拒まれ、「ならばこの家の者には手出しをしない」と約束して家人の名前を書き連ねた帳面に署名をして帰る、という物語だ。
区画遮蔽された空間には入り口からしか疫病が入り込まないことの表現として面白い。家の戸口に疫病除の護符を貼る信仰は、ここから派生するものだろう。

近世の民俗に於いては、地方の農村では村の堺や巷に置かれた道祖神が疫病神から家を守るとされた。江戸などの都市の辻にも道祖神が置かれたが、各戸の戸口や門扉に貼られた護符の果たす役割が大きい。
道祖神の信仰は『大日本法華験記』の時代から大きく拡張し、複雑化している。しかし、その根底に流れる信仰はやはり防疫神へのそれである。

12月8日あるいは2月8日の「事八日(ことようか)」に疫病神が家々を訪れ厄災をもたらすという民間伝承がある。武蔵国・相模国から伊豆国にかけての地域では、やってくるのを「目一つ小僧(一つ目小僧)」とすることが多い。それらの地域では目一つ小僧は目が沢山ある物を怖がるので、籠を家の前に吊るしておく習俗があった。

上記の地域の一部には、目一つ小僧と道祖神に関する「小正月の火祭り」の起源譚が伝わっている。
12月8日に村を訪れて村人の一年の悪行を記録した目一つ小僧は、その書付帳面を村の道祖神に預け、「翌年の2月8日(あるいは小正月)に取りに来る」と言って去っていく。目一つ小僧が戻ってくれば帳面に名前のある人々は病気になってしまうし、帳面を失くしてしまえば怒られるので、困った道祖神は自らの家に火を放ち、帳面も一緒に燃えてしまったと目一つ小僧に言い訳する。それ以来、道祖神は道端で雨ざらしになったのだが、小正月には道祖神に門松や正月飾りで作った小屋をかけ、それを焼き払うことで村人の健康や平穏を祈るようになった、というものだ。
この「小正月の火祭り」は、「どんどん焼き(ドンド焼き)」「セートバレー(サイトバライ)」「左義長」などと呼ばれている。

ここに登場する目一つ小僧は間違いなく疫病神であろう。人々の名を書いた帳面のイメージは『融通念仏縁起絵巻』に通じ、疫病神に打ち勝つ程の力を持たない道祖神(あるいは守護神を上回る強力な疫病神)は『大日本法華験記』に通じる。

ちなみに一つ目小僧とは別に、豆腐小僧という妖怪がいる。一つ目小僧は豆腐を持った姿で描かれることがあり、豆腐小僧は一つ目で描かれることもあるため、両者を同種・近縁・派生など関連の強い妖怪とする説が有力だ。その豆腐小僧は人気があったらしく、江戸後期から明治期に盛んに描かれているが、その衣装の柄が、疱瘡神の着物の柄と一致するという研究がある。

いくつかの黄表紙本の豆腐小僧と,描かれた疱瘡神図像を比較したところ,その着物の柄に共通する玩具模様が認められるものがあった.その玩具模様は疱瘡絵に描かれた玩具と同じデザインのものであった.このことから豆腐小僧は童形の疱瘡神のパロディとして黄表紙本に登場した可能性が考えられた.つまり豆腐小僧は疱瘡神が身をやつしたものではないだろうか.

この疱瘡絵というのは一種の護符で、赤一色で描かれた絵である。疱瘡神(天然痘)は赤を嫌うとされたため、絵だけでなく子どもが遊ぶ「だるま」「さるぼぼ」「赤べこ」「こけし」などの玩具は赤く作られた。

疫病神とそれを防ぐ道祖神の信仰は時代を下るにつれて様々な派生を見せ、医学の発達も相俟って複雑化していくため、全ては語り尽くせない。
「鎮花祭」「祇園祭」「鹿島送り」など、異なった信仰の系譜を持つ疫神の民俗もある。だが、それらの背後には常に喪失の経験があり、その喪失から立ち直るための知恵があったと信じたい。

疫学的な対処とは別に、先人たちの信仰や民俗に困難を乗り越えるヒントがないものか、考えている。

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