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別の岸

海の漁師から聞いた話だ。
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最近はシラス漁が主な収入だが、昔は釣り船や地引網漁が盛んだった。サンマ・アジ・イカ・イワシなどがよく捕れた。
祖父の時代には網主の下での集団漁と、個人の漁とで生計を立てていた。祖父は今で言うリアリストで、妖怪やお化けの類は一切信じていなかった。あんなものは全部嘘ッパチだと言って憚らなかったのだ。有名な海坊主の正体も知っているという。
夜、篝火を燃して漁をしていたら、「ベタッ」と舳先に黒い禿頭の生き物がしがみついてきた。舟は揺れたが、祖父は慌てず、櫂でぶん殴ったという。そいつはドブンと潜ってもう出てこなかった。どうせ火に惹かれて寄ってきた海獣の仲間だろう、あれで慌てるような奴の舟は沈むんだ、と祖父は笑っていた。実際にアザラシが地引網にかかることはある。
そんな祖父だが、信仰心は篤く、海の向こうからやってくるエビス神や、海の向こうの別の世界は漠然と信じていた。これも経験に基づくという。
ある時、祖父が一人で沖から戻ると、どうも浜の様子がおかしい。なにがどうとも言えないのだが、違和感がある。舟の置き場も家の場所も分かる。だのに、いつもと同じ景色に別の色が塗られているような、たまらない違和感があった。帰りを迎えてくれた妻も他人のように感じ、いよいよ手前がおかしくなったと思った。
翌日から2日間は時化が続き、漁に出られなかった。家で網の繕いなどして過ごしたが、妻との他愛のない会話は実に居心地が悪かった。
3日目に風が止むと、まだ暗いうちから逃げるように家を出て沖に漕ぎ出した。身の入らない漁をして時間を潰し夕刻になり、おそるおそる浜へ戻ると違和感はすっかり消えていた。家に帰れば妻も元に戻っており、思わず戸口に置いた臼に座り込んだ。
「後にも先にもこんなに恐ろしいことはなかった。あれは"別の岸"というやつに違いない」と祖父は言っていた。
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水の向こうの別世界のモチーフは、ニライカナイや三途の川、竜宮城など多く見られる。彼の祖父にはこの彼岸・此岸のイメージがあったのだろう。しかし、これは完全な別世界の話と言えるだろうか。ネットの不思議話などで見る「時空のおっさん」型の話ではないだろうか。
この漁師はほんの少しだけ"ズレた"世界に辿り着いたが、向こうの世界から見れば別世界の人間がやってきたということだ。気づいていないだけで、我々も別世界の人と会っているのかも知れない。

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