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映画『ミッドナイトスワン』で語る(第2回:母)

ごきげんよう。雨宮はなです。
先週の水曜日にまたもレディースデーで二回目の『ミッドナイトスワン』鑑賞をしてきました。物語が分かっているぶん、気になった箇所に心置きなく注目して楽しめるのが繰り返し鑑賞するメリットだと思います。

Twitterでは「『ミッドナイトスワン』のDVD/Blu-rayが届いた!」という声が聞こえるようになりましたね。
ディスクの販売は専用ページでの受注のみ、5月9日(日)まで。私も買っておこうかしらと考え中です。

さて、今回は「母」という存在・単語に注目して語ります!
私がこの作品を好きだと思う理由の一つに、実の母親にあたるキャラクターがとても現実的に描かれているというものがあります。そう、この作品に「母親神話」なんて通用しないのです!
※ネタバレを含みますので、気にする方は読み進めないでください
※遠慮なく発言しているので、家族関係が良好な人や「でも、この人だって頑張ってるんだよ」と普段考えがちな人は気を悪くする可能性がありますので、ご注意ください。

「母」とはどのような存在か

「母」とはどのような存在でしょうか。大抵の場合は”自分を生み、育てた女性””自分の配偶者を生み、育てた女性”を指す言葉ですが、家庭の事情で父・兄・姉が「母」を担う場合もあります。
”新宿の母”というように通り名としてついている場合もありますが、今回はこの作品のキャッチコピー「最期の冬、母になりたいと思った」から推測しうる「母」について考えたり語ったりします!

『ミッドナイトスワン』で「母」という存在が非常に重要なものとして扱われているのは周知の事実です。では、この作品における「母」とはいったい何を指すのでしょうか。凪沙のなりたかった「母」はどのような存在なのでしょうか。また、こども側からみた望まれる「母」や本来あるべき「母」とはどのような存在なのか…。作品中に出てくる「母」たちをみた私は彼女たちに共通の認識を持ち、ひとつの答えを導き出しました。

この3人、全員毒親です

まず紹介したいのは、この三組の親子。

桜田母娘:早織(水川あさみ)と一果(服部樹咲)
桑田母娘:真祐美(佐藤江梨子)とりん(上野鈴華)
武田母子:和子(根岸季衣)と健二(凪沙、草彅剛)

遺伝子、戸籍、環境ともに親子関係にある主要三組。「これは実質親子でしょ」「これは親子と言えるのではないか」といった考察を除き、現実的な要素で立証できる親子たちです。私はこの三組の母親全員が虐待の加害者であり、毒親だと認識しました。それぞれの特徴は以下の通りです。
※個人としては言葉を選び、あまり深堀せずに指摘しているつもりですが、人によっては気分を悪くするかもしれませんのでご注意ください

桜田早織/イチカの母
「誰のために働いてると思ってるんじゃ!」
■主な虐待…ネグレクト、暴力
■「自分ががんばっている」ことを主張する、認識させることを重要視
■妥協した、寄せているつもりでいるだけ、結局最後までこどもに向き合うことは無かった

桑田真祐美/リンの母
「貴方は黙ってなさい」「この子からバレエをとったらなんにも無いんです」
■主な虐待…存在の否定(人格を無視、所有物扱い)
■美しい自分と美しい所有物(ペットである犬と娘)が美しい状態であることにしか意義を感じられない
■娘はモノ。壊れたら存在意義はないと考えている。子供が成人することを知らなさそう

武田和子/ケンジの母
「病院行って治してもらおう!」
■主な虐待…無理解
■周囲の人間の目を気にする、「普通」から外れたものは受け入れたくない
■典型的な年寄りの田舎者。価値観と思考回路は古く、正しい知識もなく、それを新しくする努力はしないしする気もない。哀れといえば哀れ

名前の下に紹介した台詞は、「あぁ、こうやって子供を殺してるんだな」と私が感じたときのものです。本当はもっと具体的にボロクソ言いたいほど最低なキャラクターたちですが、今回の本題ではないのでまた別の機会に(読んでもらえる記事になるのかは疑問)。
この3人がクズで毒親だと認識すると何がわかるかというと、「こどもが死んでしまう原因」であり「母(親)としてやってはいけないこと」です。

「無」はこどもを殺す

3人の母キャラたちは、肉体的・精神的に自分の子供たちを殺しました(肉体的死亡は予想外だったでしょうが)。一人は生きていますが(諸説あり)途中までは間違いなく死んでいましたし、一人は自殺、一人は病死という結末をむかえました。
こどもを殺した彼女たちに共通するものな何なのか考えたとき、それは「無」だという考えにたどり着きました。こどもを育てるのに十分な環境が、関心が、人間が、知識や理解が「無」いのです、彼女たちには。

ろくな生活環境、経済状況が無い中で関心を持たれず育った一果。
自分自身が人を育てるだけの人間では無い母親のもとに生まれてしまったりん。
知識がないのはまだしも、寄り添ったり理解を示そうとしない母親に育てられてしまった健二、そして凪沙。

「無」はこどもを殺す凶器であると認識することが、初めてこどもを生かし活かすことに繋がるのだと改めて感じました。

また、3人の母キャラは現代日本における子育てへの認識の甘さや母として不十分な人間に溢れた現状をよく表していると思いました。ゴテゴテした本来の読み方から外れた漢字をあてがわれた名前や的外れな”つもり育児”、ハーネスは動物扱いなのか云々よりもまず、対象が人間であることを認識し「無」を持ちこまないことが大切なのだと教えてくれる反面教師のような役割を果たしています。

世代の違う人間とのシーンを用意していたのは素晴らしかったです。台詞が多くなくても、長い時間ソロで写っていなくても、「母」というものはこんな具合に受け継がれてきたのだと演出できるからです。

凪沙は母になれたのか

この作品の中で誰よりも母性を持ち合わせていたのは凪沙だと、私は思っています。一果の母になりたい、母として一果が好きなものに集中させてあげたい…その気持ちだけで、男性として就職を決め、バレエの資金繰りに奔走し、整形手術を受けたという行動力のかたまりです。気持ちだけでなく行動が伴うあたり、本気度が窺えます。

凪沙の母性を感じたのは…
■食事中、自分の言うことを聞いて野菜に箸を伸ばした一果をみるときの表情
■コンクールの受付をする姿
■広島にある実家で、一果の自称行為痕に気づいたときの台詞

ちょいちょい、”一果のおかあさんになりたい!”と思っている自分が強くなるシーンもありましたが、それがまた現実味を帯びていてよかったです。一果を愛するだけでなく自分のために「母」になりたい気持ちは少なからずあったと思うからです。誰かの「母」になることで、女性として完成すると思っていたのかもしれないと推測しました。

個人的に、凪沙は「母」にはなれなかったのではないかと考えます。なぜかというと、一果に「お母さん」と呼ばれていないから。そして返事をしていないから。
きっと、コンクールのときに舞台上でつぶやいた「お母さん」は凪沙宛のものだったけど、広島女が勝手に割り込んできちゃったから…。無言で会場を去ったのは少しでも早く「母」になるためだったのでしょう。

おわりに

今回は「母」をキーワードに作品に触れ、「~で語る」を展開しました!切ない話ではあるものの、母親神話ゴリゴリな展開じゃなくて良かったと思うのは私だけではないはずです。
一果と早織が「お母さんも大変だったんだね」とかなんとか言いながらハグしあう…なんて展開は要らないのです。凪沙と一果にはふたりで幸せになって欲しかったけれど、そうなれなかったからこそこの作品は良いのかもしれません。

今回も最後まで読んでくれてありがとうございます。
ではまた次の記事で。ごきげんよう。

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