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豊満なドキュメンタリー『フェルナンド・ボテロ 豊満な人生』を観る。

ごきげんよう。雨宮はなです。
Twitter公式アカウントさんのキャンペーンに当選し、前売り券をいただきました。先日、さっそく劇場へ!
フェルナンド・ボテロに触れるのは初めてでしたので、その人生や人となり、作品の数々を堪能してきました。

スクリーンでみる美術展

ボテロという画家を知ることができるのはもちろん、スクリーンでボテロ展を観ているような感覚でした。美術展でレンタルできるオーディオ解説に近い内容といえるでしょう。

ドキュメンタリー映画というと、その人物の生い立ちを写真や映像で追い、その人に関連する人物や何かしらの専門家が対象の人物についてエピソードや解説を述べる…という形式があります。ほとんどのドキュメンタリー映画がそうだといえるでしょう。最近は少し趣向を凝らした作品も増えてきましたが、おおよそ形式にのっとったものです。

この作品はその形式をとっていながら、紹介される美術品の数の多さからドキュメンタリー映画というよりも美術展を映像化したものという印象を得ます。映画が得意でない人、ドキュメンタリー映画はつまらないと思っている人は「美術展をスクリーンで眺めている」と思うと楽しめるかもしれません。

デブではなく、豊満

キャンペーンに応募しておきながら、映画を観るまでの私は「わざわざ対象をデブに描くって、どんな変態なんだろう」と思っていました。映画が始まり、彼の言葉や彼を知る人の言葉、そして紹介される作品を観ているうちに「あぁ、これはデブではなく、豊満というのだな」と認識を改めました。

ふっくらしたデザインではあるけれど、厭らしさや汚い感じがまるでないのです。「だるん」とも「でっぷり」ともしていない、「パツパツ」でも「パンッ」ともしていない不思議な線の絵でした。裸婦は穏やかにポーズをとり、内面の豊かさを見せてきます。銃撃事件のワンシーンは痛覚に幻想の痛みを訴えるのではなくその事件の痛ましさを訴えてきます。絵に含まれた情報がなによりも”豊満”だと感じました。

ボテロという人

彼の絵が持つ豊満さは彼の人となりに他ならないといえます。自分の作品と、自分が持っていた他の画家の作品を100点以上まるごと寄付してしまうことなど他の作家ではありえないことでしょう。職業画家として絵を売ることを生業とし、売れる絵を描くことが求められ、どれだけ高く売れたかが重要な人たちにとっては発生しない選択肢。

様々な人が芸術に触れて欲しいと、街中に自分の作品を並べてしまう芸術家を私は初めてみました。「楽しんでくれるなら触ったってかまわない」と言い切る彼の様子は非常にあっさりしたもので、誰にもどこにも言葉をぶつけることがありませんでした。正しい自己主張をする人、教育と平和のために尽力できる人で、あれこそ無償の愛が為せる業なのではないでしょうか。

彼の子どもたちとの関係や、子供たちの言葉・彼への興味からも人となりがうかがえます。映画『キャスティング・ディレクター ハリウッドの顔を変えた女性』でも主人公の反対派に話を聞くシーンがありましたが、この作品においてもそうで、ただ彼やその仲間は「批判も必要なものだ」とあっさりしたものでした。自分軸があり、やりたいことに集中できているからこそのスタンスだと思いました。見習いたい姿勢です。

さいごに

現在、ボテロ展も開催されており映画と同じ日に楽しむことができます。朝いちばんに映画を観て、その感覚のまま展示された美術品を楽しむ…そんな贅沢をぜひ味わってみてください。

最後まで読んでくれてありがとうございます。
ではまた次の記事で。ごきげんよう。

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