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映画『ビバリウム』で語る(第3回「男と女」)

ごきげんよう、雨宮はなです。
映画『ビバリウム』を観て、様々なことを考えたので語ってしまおうという記事の第三弾です。今回のテーマは「男と女」です。
※第1回のテーマ「こども
※第2回のテーマ「
※この記事はネタバレを含みますので、ご注意ください。
※あらすじや設定等は映画タイトルのURLから公式HPでご確認ください。

「男と女」というテーマを扱うにあたって
ジェンダーについてのあれこれが叫ばれ、触れるのが大変になっている昨今ではあるものの、私はどうしてもこれに触れないことにはこの作品を楽しみ切れないと思うわけです。映画を作るにはどうしても「役割」があり、そこに性別が加わるのは至極当然のことだと考えているからです。
ここでいう男や女は、生物学的にというか聖書的にというか、一番考えやすいシンプルな情報としてのものを指します。

現代的に「男と女」を表した「トムとジェマ」

さて、以上を踏まえたうえで改めて提示したいのは、トムとジェマは非常に現代的な男と女を表したキャラクターである、ということです。
”現代的に”と表現したのには理由があります。先ほども述べた通り、映画では(舞台や小説なんかでも)登場人物に必ず役割があります。そしてそれは、時代背景をとてもよく反映させた、流行すら見出せるものです。

ものすごくわかりやすい例を挙げるなら、ヒッチコック監督の作品。あの時代と場所における流行としての男女は「男は理知的で色香に惑わされることなく仕事か金のどちらかは持っている、女はどんなに美人だとしても馬鹿で庇護の対象でありひとりでは生きていけない」という役付け…。
あの時代ならではの男と女の役割が表現されたというか、むしろ、望まれた役割にキャラクターと役者を落とし込み「かくあるべきだ」と宣伝しているようにも思えます。

では、トムとジェマはどんな男と女で、何が現代的だと感じられるのか。

トムの中身…現代女性がみる男性像と求める要素

私が作品中のトムに感じたのは「わりと粗野な部分が描かれているな」ということと「錯乱している様子を隠されていないな」ということでした。

彼女と楽しく会話し鳥の死骸を埋めてやる心優しい青年ではありますが、一方で思った通りに事が運ばないとイライラを全く隠さない性格でもあります。ヨンダー内で明らかに怪しい従業員からジェマを引きはがそうとしても上手くいかなかったり、家に帰りたいのにいつまでもヨンダーの町から抜けられなかったりするとあからさまにムッとした表情になり、言葉もきつくなります。ジェマを守っているようでなんとなく馬鹿にしたような言動もみられます。ただし、さっぱり上手くいかず、かっこつかずに終わります。
その後、庭の素材の異質さに気づいて地面を掘ろうとするのをジェマに止められて「何かできることがあるなら、していたいんだ」と主張するトムは、いうなればすでに"SAN値”が低い状態だったのでしょう。錯乱状態に陥っていて、かっこつける余裕もありません。現実的でない行動をとる・主張する様子を隠されない、しかも、女性に見られたうえで了承を求めるんだから、やっぱりかっこがつきません。

これらは先ほど紹介した私がまとめるヒッチコック的男女の役割に当てはめると、まるで真逆の性質です。
トムは理知的とは言えないし、金持ちになれるほどの庭師ではないし仕事以外で経済的余裕のある感じでもない。作品序盤のジェマとの会話でわかるのは「なんだか飾らなくて、いい人そう」ということだけ。あとは「ちょっとおちゃめなんだな」くらいの印象。これは、男をみる女性の視線の変化によるものが大きいと感じました。

「男ってそこまで理知的じゃない」「めっちゃ金持ちじゃなくてもいい」「人間性が大切」だと意識している女性が増えたことによる、パートナー像としての男なのではないかと考えます。

トムの外見…女性からみたパートナーとしての妥協点

また、そこまで意図してのキャスティングかはわかりませんが、トム役のジェシー・アイゼンバーグ氏の外見も近代的パートナー像(男)として非常に良い表現であると思いました。
※先に述べておきますが、決して愚弄しているわけではありません。※

あまり身長が高いわけではなく、王子様的なハンサムでもない…その人を好きになって初めて”かっこいい”と思えたり、演出によってかっこよくできるようなキャンバスとしての良さがある人というか。これだけクリアできていれば、パートナーとして申し分なしと女性が思うような要素が詰め込まれています。
トムの場合はそれに加えて、服装や清潔感に無頓着というネガティヴな要素が加わるのですが、これはきっとジェマと生活し始めたときに一気に改善されるはずです(そうして”清潔な身なりの男”が生産される…)。

昔の「こんな素敵な人がいい!」「こんな王子様が表れるはず!」という理想像として男性は描かれておらず、「これくらいでいい」「これだけクリアできていればいい」という妥協点として描かれているように感じました。
ただし、それも「整えればすっごくかっこいい」「演出すればよくなる」という実はちょっと高めのハードルの上に成り立っているものなのですが、そこがわかっていないんだろうなーと感じられるあたりが現実的というか。なんというか。

ジェマの中身…現代女性がもつ男性的部分と中途半端な母性

私は作品を通してジェマに「妙に男っぽいところがあるな」「これは母性なのか現実逃避なのか」という感想を抱いていました。中途半端な母性というか。

仕事を終えて女性と会話する内容は「家」について。今のうちに買っておかないと更に高値になるわよ…と、お金の話をする様子に女性らしさは感じられません。
また、子供を相手にする仕事をしていることで「子供好き、母性が強い」と錯覚しそうなものの、”9番の家”で世話をすることになった子供への態度で「そんなことはないのだ」とはっきりします。それでも、ジェマは一応「こども」の世話をします。育児とはいえないレベルで。そうしていくうちに顔をのぞかせる母性が生物学的な女性らしさを演出しますが、あくまでも自分の調子が良かったタイミングだけでとても中途半端なものです。中途半端さは責任感と連動しているのでしょう。

そんな彼女が女性らしさをがっつり感じさせる瞬間といえば、”人の話をきかない”というか”都合の悪い話をきかない”シーンの数々です。これはトムにおいても言えることですが、性別らしさを感じられるのがネガティヴな部分だというのがより現実的でとても良いです。

社会の仕組み的にも男性的な部分が強くなってきた、ならざるをえなかった女性が表現されているのがジェマだと考えます。また、女性=最初から完璧に母性が備わっているものではないと表したのはとても勇気が必要で、良い提示だったと考えます。中途半端な母性をどのように補うか、何が必要なのかを考えさせる良いキッカケといえるでしょう。あくまで、育児は母親役に頼り切ったものではいけないのだと。
それが、男性的な役割も担っているのならなおさら。

ジェマの外見…現代的男性の理想形

ジェマの外見を思い返してみましょう。

短い金髪
整った顔立ち
腕と脚はすらりと長くてスレンダー
化粧っけは薄い
服装はカジュアル(でもスタイルが良いのはわかる)

これに私はとことん現代的男性の理想が混在していると感じました。
古典的男性が相手の作品であれば、ロングヘアで多少肉付きの良い(つまり、胸やお尻がふくよかであるということ)、バッチリメイクでわかりやすく着飾った女性がヒロイン役です。整った顔立ちは外せませんが。

これと全く真逆なのがジェマです。
※これもやはり、イモージェン・プーツ嬢を悪くいうものではありません。
ヘアメイクにお金も時間もかからない、スタイルが良くなければ芋っぽくなってしまうだけのカジュアルが似合っていてきれいに見える体格で(ちょっとマニッシュだけど)、決して”カジュアルなだけで実は高価なブランド服”なんて着ない…そんな「金のかからない美人」が現代的男性にとっては理想形なのだと気づかされます。
ただ、普段は金のかからない美人なのであって、金をかければ自慢できる素材であってほしいのです。だから、古典でも現代でも「美人」は外せない要素なわけで。たとえ自分でする買い物だとしても、お金がかかってほしくない…というのは「将来的に自分が主導権を握りたいけど、そんなに余裕がない」と明言しているようで、やっぱりかっこつきません。

もしくは、「スカートをはかない=男性と対等である」という表現としてみるのであれば、女性側が古典的な女性扱いをされることを避けている、という捉え方をすることもできます。
ジェマの外見はどの見方が正解なのか…非常に興味深いです。

おわりに

回を追うごとに文字数が増え、文量が増え、今回はトムとジェマそれぞれで分けた記事にした方が良かったのかもしれません。そんな反省をしました。

流行(時代)を意識した男女表現の見方はいかがでしたか?
今回で、「映画『ビバリウム』で語るシリーズ」はおしまいです。その予定です。後日再度鑑賞するようなことがあった場合…また違う見え方がするかもしれませんし、考えが変わるかもしれません。
その時は「帰ってきた」シリーズでnote公開しようとおもいますので、よろしくお願いします。

今回も最後まで読んでくれてありがとうございます。
ではまた次の記事で。ごきげんよう。

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