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【試写レポ】『アプローズ・アプローズ 囚人たちの大舞台』試写会【37_2022】

ごきげんよう。雨宮はなです。
Twitterキャンペーンに当選し、作品公式アカウント様からDMが届きました!
主催のリアリーライクフィルムズ様、ありがとうございます!

※今回は公開前ということを踏まえ、ネタバレのないよう頑張って作品について紹介します。
プラス、実験的に「短めの文章」で「一文ずつ区切って」表記します。

作品について

最近の作品の多くに「人を人としてみる」描写が強くなったように思います。
セカンドキャリアを難しくしているのが「社会(そこに住まう人間)」であるという訴えも。
この作品も例外ではありませんでした。
囚人と主人公が起こす奇跡や驚きの展開というエンタメは文句なしに楽しいです。
ですがそれだけでなく、「人を人としてみる」ことと「セカンドキャリア」を考えるきっかけになるでしょう。

人を人としてみているか?

主人公のエチエンヌの美徳であり欠点でもあるのが「囚人を役者としてみる」ことです。
映画を観たあとの私は、「人を人としてみる」ことは難しいのになぜ主人公はこんなに簡単にやってのけるんだろうと思いました。

”そういう人柄なんだよ”
”いい人なんだよ”
それで済ませるのは簡単だし、自分まで”いい人”になれた気分がします。
そうじゃないだろうと思ってよくよく考えてみた私の結論は、”主人公がそうしたいからそうしていただけ”でした。

主人公は自分のために囚人たちを役者としてみています。
「役者」としてしかみたくない、接したくない。
だからこの作品では良い事も悪い事も起こるのです。
「囚人」でも「役者」でもなく「人」としてみる視点を私たちにゆだねられているように感じました。

更生を許していないのは誰だ?

日頃の私たちは自分たちに様々なラベルを貼ることに慣れ過ぎています。
例えば私は一般的に「日本人」で「女性」で「独身」で「人間」です。
「黄色人種」で「雌」で「結婚できないでいる」「猿」と変換/表現する人もいるでしょう。

ラベルはそんな具合に貼られます。
同じ状態のはずなのに、ラベルの選び方は価値観に左右され、個人の中では自由につけられます。
そしてそのラベルが貼り替わることは…ラベルを貼り替える人はなかなかいません。
これは全員に等しくいえることです。

私が言いたいのは「囚人を囚人たらしめたのは、囚人たち本人でもある」ということ。
「どうせ更生しないと思われているから」と諦めてしまっては、「更生しないとみてくれてかまわない」と言ってしまうも同じ。
ただ、そう思わせてしまっているのが「社会(そこに住まう人)」とそのシステムであることに間違いはありません。
受け皿が無くては更生もなにもあったものではない。

更生が見込めない人間ももちろんいます。
更生する意思がない人間や更生の必要を認識できない人間は、社会の安全を守るための対処をするべきでしょう。
ですが、更生を許さない権利は誰にもありません。
「社会(そこに住まう人)」にも、本人にも。

「自由」であるということ

「自由」とはルールの中でこそいきるシステムだと知られるようになって久しいです。
ですが、それに気づけなかったり求めたものでないと、人は窮屈に感じます。
それが「自由」を求める理由でしょう。

この作品では「舞台の上では自由だ」という主張がなされます。
それがある種の「不自由」「求めた自由ではない」と気づくのも、言語化するのも非常に難しいことです。
それを伝えたり表現することはもっと難しい。

「自由」とはなんだろう。
自由・平等・博愛を国旗に掲げるフランスから届いたこの作品に、それを考えるヒントがある気がしてなりません。

さいごに

スウェーデンにおける実話がベースだそうですが、この話はヨーロッパではすでに様々に作品かされているおなじみの材料だそう。
日本ではあまり知られていなかった実話と『ドライブ・マイ・カー』でも扱われた『ゴドーを待ちながら』にも触れる今作。

スクリーンと客席。
舞台と客席。
監獄と外。
スウェーデンとフランスと日本。
他にも、どれだけの架け橋になっていることか。

自分と自由を考える『アプローズ・アプローズ 囚人たちの大舞台』は、7月29日(金)よりロードショー!

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