ぬるまゆのすみか

2015/9/19に発行したオリジナル短編集「てあしはふたつある」より

「恋心のはなし」

***

一・明け方のコンビニ

 柳井さんの笑顔は人をしあわせにする力があるのだと思う。月並みな表現だが、やはりそう思うのだから柳井さんの笑顔は偉大だ。柳井さんが笑うと、辺りがパッと明るくなるような気がする。笑うと目が細くなって消えて、ちょっとだけ眉が下がる。ついでにすこし眉根が寄ってしわができる。
 柳井さんは早口だ。早口なのになぜか聞き取れる。でもやっぱり早口な人はせっかちで、例にもれず柳井さんもせっかちだ。食事の注文はいつでもさっさと決めてしまうし、信号待ちのときにじりじりと車を進めてしまう癖もある。
 でも柳井さんという人は、人好きのする性格をしている。柳井さんはいつも笑顔だ。誰の話にもよく笑い、肯定する。
 柳井さんはあまり大きくはない会社で営業職をしている。それなりの成績をあげているらしく、話し上手の聞き上手だった。大雑把に見えて連絡はマメだし、ひいき目なしに誰からも好かれる人だと思う。
 その柳井さんから、食事の誘いの連絡がきていた。いくらかの顔文字を使った、質素な内容のラインメッセージだ。今夜空いてる、またいつものところで。要約するとそういうことだった。
 柳井さんとは、たいていコンビニで待ち合わせ、別れる。田園風景の広がる田舎のなかの田舎に住んでいるので、迎えはいつも唯一の目印であるコンビニになるのだ。街中のほうに会社のある柳井さんは、夏になるとコンビニ近くの草いきれの名残に嬉しそうな顔をする。春や秋には心地の良い気温に、冬になれば凍てつくような寒さに、窓を開けては「いい空気だ」と笑う。柳井さんの会社や住まいだって同じ県内だからまったくの田舎なのに、季節が変わるたびにそう笑う。だから距離を理由に待ち合わせをやめられない。
 誘いはいつも唐突にやってくる。忙しい人だとわかっているので、空いた時間に思い出してくれるだけでいい。
 学内カフェは今日も倍率が高く、埋まり切った席のなかでにやつくわけにもいかず、表情筋に鞭を入れて、SNSに返信をした。はい、もちろんです、楽しみにしてます。これ以上画面を見ていたら既読がつくのを待ってしまいそうだったので、スワイプしてアプリを終了させた。
 そうして課題でもしようかとノートパソコンを取り出したところで、あまり会いたくない人物が名指しで声をかけてきた。
「今日来てたんだー!」
 げんなりした表情を浮かべたつもりなのだけれど、彼女にはまったく効果がないようだった。にこにこと笑みを浮かべ、ちいさな丸テーブルに手を置いて話し込む態勢だ。
「来てたよ、でも課題するから、それじゃ」
「えーっ、ひどい! そういえば、髪切ったんだけどどう思う? あとこのショートパンツも買ったばっかり!」
「どうでもいい」
「そこを一言!」
「……似合ってんじゃないの? ショートパンツは短すぎ下品」
 下品って何ー! 大げさにリアクションする彼女は、結局なんの断りもなく向かいの席に腰を落ち着けた。うちの学内カフェは某コーヒーショップを意識しているので、椅子の高い一角がある。そこに座るのは大抵話目的ではなく、ひとりで作業したい人たちで、つまりこの瞬間目の前の女に苛立ちを覚えたということだ。
「座っていいなんて言ってないけど」
「ねえちょっと聞いて? 兄さんあたしの髪型見て『可愛くはないな』ってゆったんだよ!」
 食い気味に話を次いできたので、ますます苛立ちは増したけれど、この女はいつもこうだ。人の話なんて聞いちゃいない。もっと言い方あったよね、ね。開いていたノートパソコンを勝手に閉じて真剣にじっとこちらを見つめてくる彼女に、ただ「兄さんの趣味と合わなかっただけでしょ」と返しておいた。実際、肩くらいまでのウェーブがかった髪をばっさりと切った彼女は人目を引いていた。生足を惜しげもなく出せるほどのスタイルに、ベリーショートの似合う小顔。化粧映えする顔立ちをしているから、猫目のアイラインもまぶたのキラキラしたシャドウも、彼女を引き立てる。
「でも彼女に向かって可愛くないはないよね!」
 兄さん、というのは彼女の恋人のことだ。彼女は一人っ子で、兄などいない。みっつ年の離れた恋人にそういった部分を求めて、兄さんと呼ぶことにしているそうだ。本人たちがそれでいいならいいのではないか、と思おうとはしているのだけれど、兄のいる身としてはなんとなく耳障りが悪い。恋人を兄と呼ぶなんて、背徳的すぎやしないだろうか。
 そんなことを考えているうちに、彼女は荷物だけを席に残してレジの列に並びに行ってしまった。しかも遠目に見るにホットだ。冷房が利いて寒いほどとはいえ、未だ季節は夏。長居する気満々だと知れて、とりあえず次の時間までに仕上げる予定だったレポートは諦めた。無視してレポートを続けてもいいのだけれど、話しかけられているのを無視していられるほど図太い神経をしていない。相槌くらいは打ってやりたくなるし、そもそも彼女の剣幕を前にしてパソコンを開いて文字を打つなんて無理だろう。
 ホットコーヒー、とハートマークでもつきそうな嬉しそうな微笑みを持って掲げて見せた彼女は、ごく最近になってブラックのコーヒーが飲めるようになった。あるとき急においしく感じられるようになったそうだ。
 よいしょと形の良い尻を椅子に乗せて、案の定彼女はパソコンをこちらに押しやってきた。
「次の時間までね」
「オッケー、オッケー」
 コツンと可愛らしい音を立て、コーヒーのカップをテーブルに置いた。こちらのアイスコーヒーはすでに汗だくだ。パソコンをバックパックのなかに仕舞い、話を聞く体制を整えてやる。
 兄さん、仕事つらいみたい。
 話はその一言から始まった。兄さんは確か、地元の企業の営業だ。今年入社で、今は初夏。スマホに目を向ければ、次の時間まであとたっぷり一時間はありそうだった。
「兄さん、留学とかしてて同期より二年くらい歳とってるじゃん。周り年下ばっかだし、そういうのってやっぱり居心地悪いみたい。ただでさえ年下の先輩なんてうまくいかないのに、その先輩の同期のけっこうきれいな女の人が兄さんのこと気に入ってるみたいで、目の敵ってやつにされてるってゆってた。兄さんかわいそうじゃない? 悪いことなんにもしてないのに!」
 一息とはいかないまでも、一気にまくし立てられて、すこしだけ怯んだ。怯んだことを恥じるくらいどうでもいい内容なのだけれど、彼女の眉は吊りあがって、控えめなリップを塗った唇はこちらに食いつきそうなほど激しく動いていた。
 確かに、再三聞かされてきた情報のなかに、兄さんが留学やら放浪やらをしていて二、三年ほど休学をしていたというものが含まれていたのかもしれない。兄さんに対して欠片も興味がないので、すっかり忘れていた。
「そんなにつらいなら辞めればいいじゃん」
「ばか! 社会人ってそんな簡単なもんじゃないの! ……って兄さんが言ってた」
 同じことを言ったのか、と思い、自分は兄さんに関して適当だからいいのだけれど、彼女がそんな軽いノリで良いのか甚だ疑問だった。悩んで恋人に相談したら「辞めたら」と言われた兄さんにすこしだけ同情する。
「知り合いの営業マンも、入社して一年目は毎日辞めたいって思ってたらしいけど」
「え〜、そういうもんなの?」
「その人、今じゃ会社の顔ってくらいになってるから、案外兄さんもわかんないかもね」
「そうかな、そうかなあ」
「そうそう、兄さんにそう言っといて」
 もちろん、会社の顔になっている知り合いの営業マンは柳井さんのことだ。彼女の前では何度か柳井さんの名前も出して話をしているので覚えていてもおかしくないのだけれど、この調子だと知り合いの営業マンと柳井さんは繋がっていないようだ。今は兄さんのことに精一杯で、こちらの柳井さん自慢には気がつかない。
 柳井さんのことを話している唯一の存在が、この田所という女だった。なぜ彼女を選んだのかといえば、他人の人間関係にあまり興味がないから、というのと、単純に付き合いが長いからという理由だった。田所とは小学校と中学校が同じで、高校で離れてまた大学で一緒になった。離れていた高校の間もなんとなく連絡は取り合っていて、だから大学で再会したときからなんとなく一緒につるむことが多くなった。とはいえ、お互いの友人の種類がまったく違うので、学内で会うのはふたりきりの場合に限った。
 ふたりきりになったとき、ふと聞いて欲しくなって話し始めたのがきっかけだった。とはいえ、田所はやはり柳井さんに興味など持たなかった。そのくらいが丁度いい。
 もうこの話は終わりとばかりに打ち切ると、田所は腕組みをしてうーんと唸った。そしてポケットから取り出したスマホに何やらメッセージを打ち込み、次の瞬間にはすっきりとした顔でこちらを見上げた。兄さんの問題は彼女のなかで解決したらしい。なんという軽さだ、とこれから先もきっと何度でも驚く。
「ところで山下は相変わらず気になる人いないの? 紹介したげようか?」
 唐突にそう言う目の前の女に辟易とした。見つかったときよりもさらにげんなりとした表情を作り、ついでにため息も吐いた。この話題はふたりの間ではもうしないと、ついこの間決めたばかりだったのに。
「いらないって何度言ったかな……」
「でもさあ、時間がもったいないよ。学生時時代なんてあっという間って兄さん言ってたよ」
「もったいないかもったいなくないかは自分で決めるから、ほっといて」
「ふうん……」
 田所は納得していないふうで、濃いグレーのマニキュアを塗った指先をじっと眺めていた。そもそも、学生時代があっという間なんて言葉、人より二年も三年も長く学生をしていた人に言われたくない。
 田所がこんな話題を出すようになったのは、もう一年くらい前のことだ。ちょうど兄さんと出会った頃。田所が兄さんと出会ってからモノにするまでの期間は短かった。そうして自分に恋人ができて余裕があるからと、彼女はおせっかいを焼くようになった。何度もうやめろと言ったかしれない。
「次言ったら口聞かないから」
「なにそれ子どもっぽーい!」
 お前にだけは言われたくない、そう思いながらも、わりと本気で実行しようとしていた幼さをぬるいアイスコーヒーとともに飲み込んだ。せっかく柳井さんからの誘いに上がっていたテンションも急降下だ。この時点で未だ三十分も経っておらず、あと半分、田所の話を聞かなくてはならないのかと思うと辟易とした。
 結局、やはり三十分みっちり田所は話をして去っていった。ほとんどが兄さんとの惚気話で、こちらは耳を貸すのも馬鹿らしい気分で聞いていた。チャイムの音と同時に打ち切ると、田所はまだ話し足りないような顔をしたけれど、前提として一時間だけとあったので、渋々引き下がった。ようやっと解放されたと、ゴミ箱にアイスコーヒーのカップを突っ込みながらため息を吐いた。
 恋人と仲のいい田所が羨ましくないわけではなかった。あまりにもバカバカしくて呆れもするけれど、幼馴染がしあわせそうならばそれはそれでいいものだ。本人には絶対に言ってやらない本音だった。
 席に着いて、やはり誘惑には勝てずにアプリのボタンをタップしてしまった。トークのページを開けば、最後のメッセージに既読の文字がついていた。待ち望んだそれをしばらく眺め、今はバリバリ仕事をしている頃だろうとそっと画面の明かりを落とした。
 教師が来るまでの短い間、前の席の女子が昨夜の話を聞いていた。テーマは初めての朝帰り。一見控えめそうな黒髪の女の子が、明け方になって家まで送ってもらって、こっそり帰宅したという話をしてみせていた。たぶん親にはバレてる、と盛り上がる友人たちに打ち明ける。
 そういえば明け方、コンビニで別れることはないな、とふと思った。それどころか必ず夜のうちに待ち合わせて、夜のうちに解散する。柳井さんとは、夜にしか会ったことがない。健全なのか不健全なのか、よくわからない。柳井さんにその気がまったくないから健全でしかないのだろうけれど。
 明け方のコンビニ。配られたプリントの片隅、文字に落としてみて、その憧れともつかないような、遠い字面に想いを馳せた。



二・夜のばけもの

 もういい歳なんだから、とは母親の言だ。そんなことを言われても、わたしだって好きで歳ばかりを取っているわけじゃない。毎日を淡々と過ごして、気が付いたらこんな歳だっただけだ。こんな歳、というあたりにこのままではいけない自覚だってある。どうにかして両親を安心させてやりたい気持ちはあるのに、そんなことも知らずに無責任な言葉を投げつけてくる。
 別に男性、延いては恋に夢見ているというわけではない、と、思う。会うたびに友人に「理想が高すぎる」と言われていればちょっと考えを変えざるを得ないのかなとも感じるけれど。
 そんなわたしでも学生の頃はそれなりに好きな人だっていたし、恋愛ごっこは十二分に堪能した。恋心がお付き合いに発展しなかったのは、きっと自分に自信がなかったからだ。好いたからといって好かれるはずがないのに、世の男女は自信過剰に過ぎる。
 わたしは自分のアピールポイント、チャームポイントを知らない。仕事も長く続かず、転々としている。慣れる前に辞めるので、仕事のできる人という札を掲げることもできない。ミスをしたときに笑って許されるような可愛らしいキャラクターでもない。私生活でも、ごく親しい友人が数人いるきり、趣味といえば読書や映画観賞。ペットの猫にちょっかいをかけること。アウトドア派ではないから、旅行などにも行かない。こんなつまらないわたしを誰が好きになってくれるのだろう。わたしでさえ好きでないのに。
 同じ職場にお節介焼きの男がいる。柳井さんというひとつ歳上の彼は、わたしの干上がった恋愛話を聞くたびに、合コンや婚活パーティーに一緒に参加しないかと誘ってくる。今まで何度断ったことだろう。お付き合いを始めてもすぐに破局を繰り返す彼を見ていると、そういった出会いは陳腐なものにしか思えないし、そもそもわたしの柄じゃない。
 彼は非常によくできる営業マンだ。数字を稼いでくるのはもちろん、社内でも誰ともソツなく接するし、かなりの頻度でかかってくる電話にも気持ち良く対応している。春に入ってきたばかりの新人の女の子ともすでに仲良しだ。わたしはこの会社で勤め始めてまだ一年と半年だけれど、わたしよりずっと長くいる彼は、ここでやっていくための心得なんてものを時折こっそり教えてくれる。経理のおばちゃんの機嫌の良し悪しの見分け方など。
 柳井さんは見目も良いし、体格もそれなりだ。非の打ち所のない彼は、きっと合コンや婚活パーティーではさぞモテることだろう。実際、そういったイベントごとの後には社内で彼の恋愛の動向はすぐに噂になる。彼自身が場を和ませるために提供する娯楽の一種でもあるのだけれど、その気のないふりをして意識している人がいないわけでもない。
 彼はけっこう残酷だ、と思うのはそういうときだった。社内でも好意を寄せている人がいるのに気づいていながら、よそで女を作ってはそのエピソードを面白半分に提供する。
 わたしはそういう眼差しで見ないように律しているつもりだけれど、たぶん、彼は気づいている。好きとまではいかないでも、異性として感じていることを、彼は気がついている。それでもってわたしを出会いのあるイベントに誘うのだ。残酷な男だ。だからこそ惹かれるのかもしれない。
 来月の婚活イベント、せっかくだし申し込まない? 恋人のいないものどうし、がんばろう!
 今日も言われてしまった。非常に無神経なことを言っているのにそう聞こえないのは、わたしの色眼鏡だけはないはずだ。実際、フロアにいた人間みんなが「またか」とか「がんばれー」などと言っていたからだ。またか、と思われても「がんばれ」と言わしめる柳井さんの評価の高さが悔しい。
 誰もわたしの答えなど気にしていないのを知っているので、曖昧に笑ってその場を凌ぎ、会社を後にした。退社時刻のちょうど一時間後。わたしの会社内では定時退社は悪だ。
 いつものように混み合った車内で、しかしわたしは人生で一度も痴漢に遭ったことがない。高校生、大学生、そして社会人になっても電車で通っているのに、未だかつて一度もない。だからわたしには痴漢に遭って電車通学をやめた友人の気持ちが今に至るまでわからないままだ。
 わたしのことを魅力的だと思ってくれる人間は、この世に存在するのだろうか。存在しないのであれば、わたしは死ぬまでひとりぼっちだ。

夜中になると、わたしは全身に保湿クリームを塗る。隙間なく、ためらいもなく、時間をかけてたっぷりと塗りたくる。
 そうして数日に一度、考える。この保湿されたふんわりと柔らかな手が骨ばった男の手だったら、なんてことを。今この瞬間、わたしの全身をくまなく愛撫する手が好いた男のものだったら、一体どんな心地がするのだろう。例えば、そう、あの柳井という男。
 ひとりでそんなことを考えながら両の乳房にもクリームを塗りこむ。あまり大きくもない、歳とともに元気をなくしていくわたしの両の胸。
 わたしはもうじき三十になる。男の人の三十は働き盛りで格好のつく歳だけれど、女性の三十はもう立派な行き遅れだ。シワも気になるし、服だって好きなものが着られなくなる。恋人もいない処女の三十路女なんて、どうしようもない。

 どうしてこんなに冴えない女に生まれてきてしまったのだろう。育ってしまったのだろう。親のせいだとは思えない。だって彼、彼女はお互いに好き合って結婚し、わたしを生み出したのだから。
 毎日つけている日記帳を開く。今日も目立ったことはなし。昨日もその前の日のページにも、仕事でのミスで怒られて気分が悪いことなどしか書かれていない。
 わたしはこのまま死んでいくのだろうか。嫌だな。いっそもうあの男に恋をしていることにしようか。そうして無理矢理にでもときめいていようか。
 ため息がこぼれた。考えていても仕方がない。明日もはやいのだ。悲観的な考えを振り払うように大げさに布団を広げ、ベッドを整える。はかったようなタイミングで部屋に飼い猫がやってきて、我が物顔で枕を占領する。
 いつも通りだった。しかし今日思い出すのは柳井さんのあの言葉とあの目だ。爽やかな笑顔の下で、牽制でもするような冷たい光を宿していた。嫌だな。時折馬鹿なことを考えるけれど、基本的にわたしは勝ち目のない戦いはしない。だからそんな目で見ないで。
 眠りにつくまでの夜はばけもののようだ。わたしは日に日にばけものに侵食されていく。暗い考えばかりが脳裏を過ぎり、思考だけでなく顔も体も衰えていく。しっとりと肌に馴染んだクリームだけが、わたしを夜から守ってくれる最後の砦のような気がしている。
 両の腕を撫で上げ、クリームがべたつかないのを確認したら、わたしは静かに眠りにつく。猫の寝息を感じながら、明日を夢見て眠る。明日は何かがありますように。歳を取るばかりの一日でありませんように。



三・真昼の出来事

 ふたりが歩いているのを見たのは偶然のことだった。傍らを歩く男が柳井さんという人だというのに、あたしはすぐに気がついた。気になったのは女の勘というやつだけど、決定的だったのはあの子の口が『やないさん』というふうに動いたのが見て取れたことだ。あの子は嬉しそうにその名前を口にした。そんな顔で見ていたらすぐにでもばれてしまうのではないか、あたしは思わず不安になった。
 あの子は隠しているつもりらしいけど、ほとんど会うたびに名前を聞く「柳井さん」のこと、あたしには丸分かりだった。
 柳井さんの話をするようになったのは、二年くらい前だったように思う。それから一年くらいはあたしもほとんどスルーして聞いていた。恋という感情がどういったものなのか、小説も漫画も読まないあたしにはよくわかっていなかったからだ。他人の語る体験談だってあくまで他人の話で、現実味がなかった。
 そんなあたしも、学内で出会った男に恋をした。みんなの言う恋ってこういうものだったのか、と目が醒める思いだった。驚いたことに、本当にその人のことしか考えられなくなるし、メールや電話の返事ひとつひとつに感情が揺すぶられるのだ。
 彼はみっつ年上の学生だった。海外経験も豊富で、ちょっと傲慢で子どもっぽいところもかわいい、魅力的な男性だ。誰にも取られたくなくて、女の影があれば牽制し、まさしく持てるすべてを使って手に入れた。自分の顔やスタイルが人よりほんのすこしでも優れていることに感謝しつつ、底抜けに明るいキャラクターで彼を捕まえた。これはあたし自身しか知らない、思いがけないあたしの計算高さだった。
 恋は人を変えるのだ。あたしは人を出し抜けるような性格ではなかったのに、彼を手にいれるためなら、どんなことでもしようと思ったのだから。
 あたしが彼に恋をした頃、聞いていればあの子の口ぶりはそっくりそのまま恋するあたしのものだった。ラインの返事に悩む姿や、食事に誘われたんだけどという素っ気なさを装った喜び。あの子は柳井さんに恋をしていた。いつからだったのかはもう今となっては聞けないけれど、あの子は確かに恋をしている。
 あの子はあたしと違って、他の女と同じ土俵に上がる気なんてないようだったから、あたしは気がつかないふりをし続けた。
 彼と会えない日、久々にあの子をごはんに誘っても優先順位は柳井さんが上。あたしが年上の彼の話をすれば、対抗するように口にするのは八つ年上の社会人、柳井さんの話。知り合いの営業マンなんて言うけど、そんなの一人しかいないでしょ、と何度言ってやりたくなったことか。
 あの子と柳井さんはたいてい夜、地元のボロくさいコンビニで待ち合わせてごはんに行くらしかった。街中まで出て、小洒落た店で食べて送ってもらって帰って来る。柳井さんが何を考えてあの子を誘うのか、あたしにはさっぱりわからなかった。
 あたしがすぐに気がついたあの子の恋心に、柳井さんは気がついていないのだろうか。もともとそういう対象として見ていなければそう気がつかないんだろうけど。
 あたしがその日、あの子と柳井さんを見かけたのは本当に偶然だった。彼の誕生日プレゼントを買おうと思って街中に出かけて行ったのが夜だった、それだけだ。あの子は嬉しそうに柳井さんの隣を歩いていた。スーツ姿の小綺麗なサラリーマンと、どう見ても大学生のあの子が並んで歩いている様子は奇妙な光景だった。
 柳井さんを見たのは初めてだったけど、概ねあの子の言う通りの人だった。すっきりと整った顔立ちに、スタイルもそれなり。こざっぱりとした髪型は好印象だ。それに笑顔が良かった。あの笑顔にやられたのだろうな、と思いながら、あたしはこちらにまったく気がつかないあの子の盲目さに驚いてもいた。
 恋は人を変えるのだ。冷静で、いつも周りによく目を配り、人の話を気だるげに聞いているあの子が、おしゃべりに夢中になっていて真正面から来る知り合いに気付けないなんて。
 あたしたちは人ごみのなか、ひっそりとすれ違った。気付かないあの子と一緒になって笑う柳井さんに、あたしは泣きたいような気持ちになった。あの子はこんな恋をしてはいけなかった。こんなに溺れてしまって可哀想だと思った。絶対、叶うはずがないのに。
 彼に会いたくなって、道端でメッセージを送った。会いたい。その一言が簡単に言えるあたしと、気まぐれに誘われるのを待つあの子。白昼堂々デートに出かけられるあたしたちと、夜だけ出会えるあの子。他の人にしておけばいいのに、どうしてあの人を選んでしまったのだろう。
 可哀想なあの子。



四・ぬるまゆのすみか

 柳井さんの寂しがりなところ、柔らかな女の人が好きなところ、そういうのはもう治らない病気のようなものだろう。この二年ほどを一緒に過ごし、嫌というほど理解した。仕事が充実していて、人間関係も円滑、趣味だってある。ただ、柳井さんはどこか空虚なものを抱えているらしい。それを埋めてくれるのが柔らかな女性の腕や胸で、それらはどうしても与えてやれないものだった。
 柳井さんはあまり背が高くない。とはいえ、ヒールを履いた女の子を隣に歩かせても負けることのない身長はある。小柄な女の子を横にしたときなんか、ほとんど理想的な身長なのではないだろうか。本人はコンプレックスだと言い張るが、気にすることなんてない。
 だから冗談でも、一緒に歩くのが嫌だなんて言うな。言わないで。
 十センチ以上も下にある黒髪を見下ろしながら、そんなことを思っていた。いつかに言われたその一言は、こちらの心の深い深いところに刺さったままだ。
 柳井さんほど残酷な人を知らない。田所はバカみたいに直情型だし、その他の友人たちも色恋には正直だ。好きになったらフルアタック、冷めたらそれでおしまい。だけれど柳井さんは違う。
 取っ替え引っ替えとまではいかないまでも、かなりの頻度で恋人が変わる。相手が自分の空虚な部分を埋められない存在だと気がつけば、大した罪悪感もなく他の人に心奪われてしまうのだ。そしてそれを悟られないように、さりげなく距離を取っていく。気づいたら手からこぼれ落ちている。そういうことを自分の価値を下げずにやりきるだけの冷静さや手腕がある。本人は経験値だと言い張るものの、それは違う。きっと生まれ持ったものだ。同じものをずっと愛でていられない、飽きっぽさは子どものそれに近い。子ども染みた傲慢さと、大人びた手管。柳井さんのそういうところを見るにつけ、愛おしさと絶望感に同時に襲われる。
 柳井さんはなかなか自分と同じだけ愛してくれる人に出会えないのだと言う。あなたのことを真実好いている人などたくさんいるというのに。
 ここにも、いるというのに。真っ黒でピカピカの車の助手席に乗り込みながら、アルコールも入っていない健全な頭で考えた。どんなに態度で示そうと、言葉にしない限り柳井さんは絶対に気がつかない。だから安心して隣にいられる。
「そういえば、こないだの合コン? どうなったんですか?」
 何気ない会話の続きでそう尋ねた。勇気の要る言葉だけれど、柳井さんはもちろん気がつかない。それは決して柳井さんが鈍感なせいではない。運転席に乗り込んだ柳井さんは、情けない顔つきになって「うう」と可愛らしい唸り声を立てた。
「惨敗。連絡先すらもらえなかった……」
 思わずハハ、と声をあげて笑うと、柳井さんはますます情けない表情を浮かべた。笑うなよ、と芝居がかった悲壮感あふれる声音で呟き、それから気を切り替えるようにエンジンを入れた。街中の駐車場に車のエンジン音が響く。その音に紛れるように今ここで、合コンなんかもうやめにしたらいいのにと囁いても、きっとこの距離では聞こえてしまう。だから何も言わずに笑った。うまく笑えているのかは、いつものことながらわからない。
 柳井さんの愛車はふたりを乗せて夜の道路に滑り出した。白いライト、赤いテールランプ、道道の電灯、ネオン。車のなかにはラジオが流れている。エアコンがかすかに音を立てて、風がTシャツの袖口をのんびりと揺らす。
 隣を盗み見れば、まっすぐな目をした年上の男がそこにはいる。じっと見ていることはできない。ちらりと横目で見て、そして前を向く。
 柔らかな女性が好きな柳井さんへのこの想いが、絶対に叶わないことくらい知っている。でも、どうしようもなく好きだから、好きでいたかった。
 何も話さずに過ぎていく時間も大切だった。一緒にいられる時間、空間、すべてがかけがえのないものだった。しかし神様は無情だから、コンビニまでの時間はあっという間だ。駐車はせずに、コンビニの敷地内で停車する。素早く降り、ドアを閉じる前に一礼。
「じゃあ、また」
「うん、また連絡する」
「はい。楽しみにしてます」
「気をつけて」
 おやすみ、おやすみなさい。いつもと同じ別れの挨拶を口にして、柳井さんの車は静かに消えていった。そのテールランプが見えなくなるまで見送って、ほとほとと帰路に着いた。立ち尽くす姿は健気だったことだろう。
 ポケットから取り出したスマホを見れば、田所からメッセージがひとつ。
『最近兄さんが好きってゆってくれない』
 苦いものを噛み潰した顔、というのはこういうものなのかもしれない。苦虫なんて噛み潰したことはないけれど、今みたいに渋い顔になるはずだ。
『諦めろ』
 兄さんなんて適当が服を着て歩いているようなやつ、恰好つけて口にしないだけだろう。
「好きって言ってくれないなら、諦めろ」
 ぽつりと呟いた言葉は思いの外自分に跳ね返ってきて、苦しいなあと思いながらアパートを目指した。
 一度も言われたことのない言葉。これからも決して言われないだろう言葉。柳井さんとの間では縁のない言葉。
 諦めろ、呟いて諦められるなら、とうの昔に諦めている。二年もこんな思いを引き摺ったりしない。いつまで引きずるのだろう、いつになったら諦められるのだろう。気持ちは増していく一方だ。
 自分で貯めた恋心というぬるま湯に浸かったまま、いつまでも諦められずにいる。熱くもなく、冷たくもない、心地よくて抜け出せないぬるい温度。誰かこのぬるま湯から掬い上げてくれないか。

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