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第三十二夜 『衣服哲学』
DX(デジタルトランスフォーメーション)推進という言葉が陳腐化されてどのくらい経つであろう。営業職、その中でも不動産会社というのは圧倒的にDX化が遅れていると言える。むしろ、そこを推し進めている会社が今上場を果たしているところを見ると、その分野で後進が戦ってもなかなか厳しそうである。
「給与のデジタル支払いを導入するか検討しているんだよね。流行りだし。これからの時代DX化が重要なんだろう。今や保険ですら全てタブレットだものなぁ。」
タブレットの申込書の確認作業中、取引先の専務のT様から雑談を振られたのである。株式会社アメリの弱点をここでお伝えしよう。雑談である。彼は一度手を止め、T様の発言に対する回答を捻り出す。それは知識のなさからではない、知っているが故に相手の意図に反することを恐れてである。雄弁は銀、沈黙は金である。
「従業員の給与支払いを電子マネーに移行するおつもりなのですか。」
そう。こういった際に求められることは、何よりも先ず状況確認である。決めつけしないことである。
「そうだね。先日、マイナンバーカードを作成してね。PayPayで受け取って初めて使ってみたんだけど、とても便利でね。銀行と連携なんかもしたのだけど、手数料もかからない。これからの時代は電子マネーが当たり前になるのだろうから、今のうちに導入しておくべきかなとね。」
2023年4月給与の電子マネーでの支払いが解禁された。どの決済アプリでも良い訳ではなく、厚生労働大臣から指定を受けた「資金移動決済業者」が提供するものに限られる点には注意が必要であろう。
「アメリさんでは導入しないの。」
国がキャッシュレス決済を重要な社会インフラとして活用の新たな試みとしてアメリとしても一つの選択肢とはなるだろう。しかし、現状障壁も多いことも事実である。
「弊社では今の所導入を考えてはいないですね。アルバイトや契約社員を雇ったら検討するかもしれません。また、T様のお勤めの会社での導入は費用対効果があまり高くないでしょう。」
「それはなぜだい。」
「御社の大体のお給料事情を把握しておりますので言えることですが、電子マネーの場合、労働者が受け取れる各種サービス内の残高は、100万円が上限とされております。そのため、御社のトップ営業マンや役職者レベルの給与の受け取り口座の代替品として活用するのは現時点では難しいです。」
寝耳に水と言わんばかりに目を見開くT様。身体が5cmほど前に出た気がする。
「そんな上限があるのか。知らなかったよ。ちなみに他にも要因はあるのかな。」
やはり成長企業を支える人間というのは、このあたりの貪欲さに目を見張るものがある。素直に聞き、自身で濾過する機能を持っている。だからこそ投資への判断も早く的確で機を逃さない。
「事業所への導入に当たっては、使用者と労働者の間で労使協定の締結などが必要です。導入後は、労働者は従来の受け取り方の継続も可能で、デジタル払いと銀行振り込みの併用も出来ます。経理からすると業務量が増えることは目に見えております。この辺りがクリアされないとなかなか普及はしないかと考えています。」
T様の頭の中で情報の濾過が始まった。自身の知識と経験で今までの情報から自社の利益を探しているのだろう。体感にして2分ほどだろうか。顔色がパッと明るくなった。
「なるほど、だからアルバイトと契約社員なのか。」
彼はT様がそんな結論に至ることは先に至ることはわかっていましたと言わんばかりに話を続ける。
「給与の電子マネー払いは、FPとしてもぜひ推し進めたい施策の一つです。しかし現状の制度では銀行口座を開設しにくい外国人労働者や、単発の仕事を請け負うギグワーカー向けの給与支払いにおいて導入実績を増やして行くのが適切だろうかと」
彼は多くを語らなかった。語る必要がなかったのである。トーマス・カーライルの「Speech is silver,silence is gold」を実践しただけである。
「やはり、アメリさんに聞いてみるものだね。」
最高の賛辞を頂き、同時に大きなハードルを超える準備をまた始めなくてはならない。といっても、我々はいつも通り知識を蓄えるだけなのだが。
物語の続きはまた次の夜に…良い夢を。