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往復書簡~いっしょに歩きたいです~

拝啓

日中の陽射しのおかげで、出かけるときには蕾だった花が帰宅する頃には咲きかけていて驚く毎日ですが、いかがお過ごしでしょうか。

お待たせしてしまいましたが、ご紹介いただいたエッセイ集『詩と散策』の感想を送らせていただき、お手紙のお返事に代えさせていただきたいと思います。

受け取ってまず目次を開き、「気になるところから読み始めても良いのだろうか」と少し気がとがめながら、25番目の「彼女の歩く姿は美しい」に決めました。いただいたお手紙に書かれていた言葉を見付け、同じ本を読んでいるということにわくわくしました。また作者の文章は、細やかに情景や感情を描きながら、静かに同じ時間を過ごしてくれているようで安らぎました。

日を置いて、次は10番目の「永遠の中の一日」を選びました。この題名から、私は数年前に読んだ歌集『滑走路』の一句を思い出しました。

「今日という日もまた栞 読みさしの人生という書物にすれば」

という句です。

持続する時間の中にそっと栞を挟んでいると思えば、どんな一日でも、作者が述べる完璧に過ごせた一日でも穏やかな気持ちで自分の中に消化できますし、この先も毎日栞を挟んでいけばいいと勇気付けられます。ハン・ジョンウォンさんの思いも、『滑走路』の作者である萩原慎一郎さんの思いも汲み取りきれていないのですが、ハン・ジョンウォンさんがオクタビオ・パスの詩を「今日は永遠の中で何度も存在する」と説明していることと似通っていれば心強いです。また、ハン・ジョンウォンさんご自身も、映画をしめくくる最後の問答について、「この答えは、人によって受け取り方が違うだろう」とおっしゃってくださったので、もっと繊細に解釈したいもどかしさを感じつつ、今の私の理解の範囲を記しておこうと思います。

今の箇所は何か違うような気がすると戸惑いながらまとめましたが、これに続く言葉はとてもしっくりときました。

アレクサンドロスが三つの詩語によって「持続」することに勇気を得た場面です。私は持続することに憧れも勇気もまだ持てていません。でも、それは私が詩語に出会えていないからではないかと感じました。既視の海さんに一瞬で魅了されたのは、言葉を丁寧に繊細につかう方だからだと言うことも、改めてしみじみと納得しました。著者の言葉や、手紙を読んでくださる方の姿を「敏感に感じ取り」、それから自分自身が捉えたものを形にするためにふさわしい言葉を「執拗に探す」。それがいずれ私の詩語になる。これだと思える言葉をつかえるようになったとき、言葉そのものやそれまでの経験が詩語になって、アレクサンドロスのように勇気を持てるのかも知れません。結局また都合のいい解釈をしているように思えてきましたが、私に必要なことが見えた気がしました。

この二つを慎重に読んだあとは加速して、それでも一週間かかりましたが、無事に読み終えることができました。

読み終えた晩は一向に形になりませんでした。いただいたお手紙を読み返しながら、私よりはるかにこの作品を深く読み込まれている方に何を話せばいいのか迷って、「やっぱり畏れ多い。私が立ち入ったら場違い」という思いばかりが浮かびました。このままぬくぬくと読む側でいることも幸せでしたし。

ですが、この本の著者が「いっしょに歩きませんか?」という誘いに少しも遠慮や警戒心を抱かなかっただろうことを想像して、私も「いっしょに書きませんか。そして、いっしょに歩きませんか」という既視の海さんの優しいお誘いにのっかってみようと書き始めました。

唐突ですみません。そして、恥ずかしくて自信満々に書くことではないのですが、実は私は読書がけっこう苦手です。読みたいと思いつつ、もしくは読まなければと思いつつ、難易度が高いことだと躊躇している感じです。この本を頭から読むことから逃げたのは、途中で挫折するかも知れないと不安だったからです。

それから、好きなものに介入されるのも抵抗がありました。今は全くそんな風に思わなくなりましたが、自分の内面や考えに繋がるものは仕舞い込んでおきたい時期がありました。ですから、誰かの読んだ本について語ることも避けた方がいいと思っていました。

けれど、そんな感情を持っていたことさえ忘れた今既視の海さんの文章に触れてみたら、送る相手を意識した言葉だからでしょうか、とても魅力的で言葉一つひとつに憧れを抱きました。別のやりとりでお伝えしたように、心底「弟子入りしたい」と思うほどでした。「ひとりの本好きが、本好きの友だちに出す手紙」をきっかけに出会えたことに感謝していますし、縁あってお手紙をやり取りさせていただけることが夢みたいです。

さて、今回のお手紙とご紹介いただいた作品へのお礼になるか分かりませんが、私も一冊紹介いたします。フォレスト・カーターの『リトル・トリー』という作品です。

こちらは、ネイティブアメリカンの末裔である著者の回想録で、祖父母と暮らした幼少期がこどもの視点のまま語られています。純粋で素直な語調と、静かに同じ時間をともにしてくれる心地よさが、今回の『詩と散策』と似ている気もします。

リトル・トリー(主人公のインディアンネームです)をとりまくのは、大好きな祖父母と大自然と、時折関わる人間たちです。この中には、馬鹿にしてくる人や、我こそが正しいと従わせようとしてくる人もいます。しかしリトル・トリーは、自分が何を大事にしていて何を信じればいいのかを、まわりに振り回されることなく学んでいきます。

この本の本編の前には、「この本を読んだ人は、どうやってこの本と出会ったか覚えている」というような文があります。残念ながら現在実家に帰省しており手元に置いていないため、正確にお伝えできず申し訳ありません。

せっかくなので、ここからはこの本と私との出会いについて聞いていただければと思います。

私は高校一年生のときにこの本と出会いました。私の真新しい世界史の資料集に、ネイティブアメリカンの強制移住を描いた作品が載っていて、ある夜その絵を父と兄と私の三人で見ていました。それについて父が、「本当の歴史が何なのか、学校から学ぶだけではいけない」と言って、本棚から持ってきたのがこの本でした。父はそのまま、リトル・トリーの祖父母の昔話のページを読み聞かせてくれました。

絵の描写と本の内容が異なっていたことには本当に驚きました。絵画には幌馬車に乗せられたチェロキー族の人たちが描かれていた一方で、リトル・トリーの祖父母が語ったのは、暮らしや命を奪われても魂だけは渡すまいと、移住者が用意した幌馬車に乗るのを拒否した先祖の生き様でした。そして、「涙の旅路」と呼ばれるこの強制移住で泣いていたのは、迫害されていく一行を「見物」していた移住者たちだったこと。私は学校で教わることをただ覚えていけばいいと思っていたため、本当に衝撃的な出会いでした。

そのあと父は、どちらが正しいのかと言うことはなく、すぐに本を片付け話題にすることはありませんでした。それから二年後、読まずにいられなくなって手に取ったのが二度目の出会いです。受験勉強が大詰めを迎えている時期でしたが読みました。それ以来、この本は私の一番大事な本です。今後力のある人たちが何を言っても、私はリトル・トリーのそばで、彼ならどう行動するか問いながら生きていきたいと思いました。

半ば隠し持っていて誰かに話したことがなかったこの一冊を、こうしてお話することができて嬉しいです。本の感想と紹介よりも思い出話がほとんどになってしまい申し訳ない気持ちもありますが、香りでも音楽でも本でも、記憶に裏付けられて「これが好き」と思うこともあると思うので、悪しからずご容赦ください。

既視の海さんからのご厚意には遠く及ばず、ささやかでおこがましいことは承知しておりますが、この手紙とともにお読みいただけるなら嬉しいです。また、もしもこの本と初めて出会われたのでしたら、どうか頭の片隅に留めていただけたら幸いです。

私は今日狭い坂道を歩きました。登りは花の香りを確かめたり写真を撮ったりしながら、下りはただ歩きました。下から吹き上げてくる風が心地よかったです。そのあとダムの側を通ったら、水辺から吹く風は冷たくてもっと心地よかったです。既視の海さんはどんな一日を過ごされたでしょうか。

                    敬具

                    冬青

追伸
既視の海さん、それから快く形式を参考にさせてくださった菅野紫さんへ敬意を表します。


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こちらは、既視の海さんからのお手紙『歩くことと、言葉を紡ぐことは似ている——ハン・ジョンウォン『詩と散策』【書評】』へのお返事として書かせていただいたものです。

https://note.com/dejavudelmar/n/neb11569169bc

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[既視の海さんと菅野紫さんの往復書簡]

拝啓 本を愛するあなたへ|既視の海 @dejavudelmar #note https://note.com/dejavudelmar/m/m580c52a99fea

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