見出し画像

『樹木希林 120の遺言』ばあちゃん、ありがとう

令和6年4月27日 祖母が亡くなった。
昭和6年生まれの祖母。
樹木希林さんにそっくりな祖母。

100歳まで生きて欲しいなと楽観的にのほほんと私は考えていたのに。
もう会えない。

4月27日はちょうど従姉妹と一緒にグループホームでばあちゃんに面会する予約をしていた。コロナでずっと会えなかったから、何年かぶりのばあちゃん。ところが、もし、27日予約日通りに行っていたら、2度と会えないままお別れになるところだった。

4月24日、グループホームの訪問医の先生が「お孫さんに、27日じゃ遅いかもしれないと連絡するように」と叔父経由で伝えてくれた。慌てて連絡を受けた日の翌日25日に会いに行くことにした。
東京の従姉妹も急遽24日の最終便で帰ってきて、奈良の私の弟もすぐに車で帰ってきて、みんなでばあちゃんに会いに行った。

ばあちゃんの娘も息子も姪も弟も孫もひ孫も兵庫や大阪やいたるところからすぐにかけつけていた。

ばあちゃんは、苦しそうに痛そうにもうろうとする中、生まれたばかりのひ孫(私の弟の子供)の動画を見せると満面の笑顔で「かわいいなぁ」って。
食事も水ももうほとんど摂れなくなってたけれど、少し水を飲ませてあげると、「水飲んだおかげで痛くなくなったよ」って笑っていた。

少し眠り始めると、にっこり微笑んでいた。
肺に水が溜まって呼吸も苦しいのに。骨折で足も腰も痛いのに。

私が帰る前には、ちょっと元気になって、アイスクリームまで「美味しいなぁ」って口にできるようになってた。
...もしかしたら、まだ大丈夫かも。危篤から元気になった人も見たことあるし。ばあちゃん、また会いに来させて、来月も再来月も来るから...って内心淡い期待を抱きながらグループホームをあとにした。

でも、27日に日付が変わった頃、訃報の連絡。
その夜は、全く眠れなかった。

死因は、腎不全からの尿毒症。

透析を勧められたけれど、選択したのは自然のままの死。
何が正解だったのかわからない。
本当に苦しかっただろうけど、骨折をしても寝たきりになることなく、最期にたくさんの人が会いに来て笑顔で話しもできて、ばあちゃんよかったなぁ、幸せだったんじゃないかなぁって思う。

グループホームで最期までお世話をしていただいて感謝しかない。入居はたった1ヶ月だったけれど、ばあちゃん楽しそうだったって。
島のグループホームだったから、他の入居者も昔馴染みのお友達だったらしい。

病院だったら、周りは知らない人ばかりで、さらに面会制限は厳しくて、たくさんの身内が押しかけたら迷惑がられたに違いない。
点滴の管もついてただろうし、アイスクリームもダメだっただろうな。
鎮静剤で疎通も難しかったかもしれない。ばあちゃんの痛みと苦しみはなかったかもしれないけれど。笑顔もなかったかもしれない。

ばあちゃん、私はまだ、もう少しこちらの世界で頑張ってみるから。
コロナでずっとずっとばあちゃんに会えなくて、久しぶりに面会予約をした日では、もう間に合わなくなっていたなんて。
もっとたくさん会いに行けた時間あっただろって後悔をしている。でも、コロナで会えなくなって、そのまま1度も会えないままだったら、危うくとんでもない後悔なるところだった。
最期に連絡してくれた先生、ありがとう。

ばあちゃんの最期のガチャは、当たりだったね。

ばあちゃんの無償の愛は、忘れないから。
ばあちゃん、ありがとう。大好き。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?