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発達障害者が教える側になるとき

 昔、ツアーコンダクターをしていた頃、旅行閑散期に個別指導塾でアルバイトしていた。

 今はどうか知らないが、その頃の個別指導塾は生徒の学力の二極化が顕著だった。できる子は非常にできたし、できない子は本当にお世辞も見つからないくらい、とことん出来なかった。
 また、できる子の場合も塾で習っているその科目に限って超できる、みたいなケースが多かった。

 どれかの科目に限って、非常にできて伸ばしたい、もしくは非常にできなくて心配、だから個別で先生をつけましょうということだったのだろう。(個別指導は高価なので、教科を絞ることが多い)

 その結果、得意不得意のデコボコが顕著な、そう、まるで学生時代の私のような子も沢山集まっていた。

 
 私は国語を担当させてもらっていたが、やはりびっくりするくらい解けない子が何人かいた。

 学校の先生から、大事な所に線を引きなさいと言われて、教科書の文章全てに線を引いている子もいたし、高校生でも音読み訓読みの区別を知らない子もいた。読ませても書かせても彼らは反応が薄く、何なら筆圧すら薄かった。


 そういう子たちに、私がまず最初に教えるのは決まって接続詞だった。

 接続詞は句読点で区切られている場合も多く、文章を読み慣れていなくても見つけやすい。
 見つけられたら、順接と逆接の区別。そしてそれぞれのバリエーション。沢山覚えるのが難しい場合は逆接だけでも、「しかし」「だが」等、一緒に口に出して何とか覚えてもらう。
 そして、文章の中から覚えた接続詞を見つけ出して、印を付ける。印の後ろの文章に線を引いて、それを拾って読んでいく。

 たったこれだけでも、これまで文全体を眺めているだけだった「解く」行程に、具体的な作業ができて手応えを感じるのか、反応が変わってくることがあった。
 接続詞の知識だけでは正答に辿り着けなくとも、一定のプロセスを踏めば文脈に触れる。当たり前にも思えるが、彼らはそれを、初めて知るように見えた。


 国語が極端に苦手な子は、苦手意識からか、たいてい丁寧に読みすぎている。
 文章の全体をじっくり眺めた結果、言い換えた表現が同じことの繰り返しと気づかず振り回され、逆接による強調も見落としてしまう。比喩を文字通りに受け取ったり、そもそも読むのが間に合わなかったり。
 彼らに必要なのは、丁寧に読むと言うより、うまく読み飛ばす力なのではないかと思う。

 国語が平均程度にできる人は、恐らく意識せずとも文章の中の情報を取捨選択している。自分も知らないうちに適宜読み飛ばしている。しかも、誰にも教えられずに。
 そして、文脈を間違うと、読み飛ばしすぎたかな?と少し篩の目を細かくして読み直す。
 読むだけでなく、書くときだってそう。前列の接続詞だって、恐らくあまり意識せずに散りばめている。(普段、記事を書く側の皆さん。よし強調するぞ、ここで「しかし」投入だ!!とか、いちいち思わないでしょう?)


 でも、国語がとことん苦手、文脈が全くわからない、と訴える子は違う。本来は、無意識にあるはずの思考のプロセスも細かく顕在化させ、教えてもらわないと「知らない」。
 だから、彼らに「文章を丁寧に読みなさい」といった篩の目を絞るようなアドバイスをしても、時として逆効果になっていたりする。彼らの篩には、そもそも穴が空いていないからだ。

 これは国語だけに言えることではない。

 私はたまたま国語は得意だったが、その代償のように数学はとことん苦手だった。
 ひどい点数の私に、色々な人がアドバイスをくれた。「ちゃんと検算するように」だの、「式を省略せずに丁寧に書け」など、どれも正しい。私なりにそれを実行しようともした。
 だが、それでも数学の点数は最後まで振るわなかった。検算するたびに違う値が出るし、式を展開する途中で上の数字を書き写し間違える。そもそも私は、2桁が混ざると全く暗算できないので、解くの自体が間に合わなかった。

 数字が平均程度にできる人にはわけもないプロセスが、私には備わっていなかったということだ。当時の私は、そのことすら気づかず、数学の試験では鬱々と鉛筆を転がしていた。

 国語や数学の試験が、人生の幸福度に関係するかというと、そうでもない。苦手な科目がそこまで苦痛なら、点数に拘らなくてもいいと私は思う。

 ただ、特定の教科のみ極端に苦手な場合、その裏には、多くの人が無意識に行なっている思考プロセスの欠如が潜んでいる可能性がある。
 その場合、自分でも知らないうちに、日常生活の中に困難を抱えることになりはしないか。

 ちょっと長い文章が全く読めなければ、情報から取り残される。書く文章の因果関係がおかしいと、そんな気がなくてもSNSを炎上させてしまうかもしれない。
 暗算の弱い私は、家計の管理が全く駄目で、何をどのスーパーで買うのが安いのか、いまだにわからない。時間の予測も甘くて、いい歳していつも遅刻ギリギリだ。

 そんなとき、私ならせめて自分で、自分は世間一般では無意識のプロセスが意識しないとできないと知っておきたい。
 知ったところで無意識にできるようにはそう簡単にはならないから、その分野が苦手なことには変わりない。それでも、やれることが顕在化していれば、途方にくれて立ち尽くすことは減る。
 あのときも、あのときも、何をしていいのかわからないことが、私は一番辛かった。

 だから私は、文章を前に手持ち無沙汰そうな子たちの最初の授業は、接続詞と決めている。
 発達障害だの何だのの知識がないまま講師をしていたあの頃も、本当に教えたいことを、心の何処かで知っていた。
 私は多分、教科は違えど、思春期の自身に手を伸ばしたいのかもしれない。私にとって「教える」ことは、如何に得意教科の無意識部分を顕在化し、言語化できるかだ。

 

 最近、フリースクールで教える機会を頂けたので、早速テキストの「しかし」に張り切って印をつけている。
 だが、いざ授業に行ってみると何かおかしい。どうもテキストの何ページを予習するか、メモを書き間違って帰ったようなのだ。

 ああ、誰か。

 私は私で、国語をがんばって教えるから。今からでも私に、数字を書き間違わない脳内プロセスを教えてくれないだろうか。
 何ならまだ、高校の制服はとってあるから。
 

 

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