2022/10

マジミラ10th~ボカコレ2022秋を経た自分の、心境の記録。
ひどく落ち込んでから、だんだん立ち直ってきた。整理のために書いとく。


少し前、自分に対して大いに失望した日があった。
自分が音楽活動の2年間でやってきたことが間違いのようにしか思えなくなった。生み出してきたもの全てに誇りが持てなくなった。
ほぼ恥と後悔しか残らなくなった。
最近Twitterが低浮上気味でつぶやきも雑だったのは、以上の理由で活動のモチベーションがずっと低迷していたため。“モチベーション”というのは、創作意欲も含まれる。


自分はいつも人の視線を恐れてばかりだった。
何をするときも他人にどう見られるか気にしてばかりで、常に怯えていた。
そんな自分が、一気に多くの、とても多くの他人から注目を浴びる機会に巡り合った。それが、ある種の始まり。
実感がなさ過ぎて、喜びなど感じられなかったが、まず自分を騙すためにも、喜んでいることにした。それは喜ぶべきことであって、喜んでいるところを周りに見せないといけないから。
要するに、嫌われるのが怖かった。ありのままに振る舞うことができない自信のなさ故か、等身大以上の自分になりきり続けた。やりたいことでもないことをやりたがって、首を突っ込む必要もないところに首を突っ込みかけ、目立つ必要もないのに目立とうとして。
数字や評価を追い求めて、手に入れたつもりになって酔いしれた。努力が極度に苦手だった自分が、生まれて初めて努力が実っているような気がしたのかな。結果的にそれは別の人の人生を歩んでいて、本来の自分からしたらほとんど全て間違いだった。

ただ愛されていたかった。尊敬されたかった。才能に溢れた魅力的な人だと、知的な人だと、面白い人だと思われていたかった。実際、表面的には少しだけ愛された。かつての自分では考えられない経験をたくさんした。
それが憧れだったから。
でも気づいた。それは“自分の憧れ”であって、“自分”ではない、ということに。そうなりたかったのは、何より実際の自分がそうでないことの裏返しだったわけで。


昔からよく空想に浸りがちで、子供の頃はよく自由帳に絵を描いていた。くだらない会話劇を書いていた。自宅や、学校の休み時間の教室で。
いつ、どこでも、気がつけば頭の中に、今その目で見えているものとは全く違う映像が流れ、違う音声が聞こえている。その内容に一人でニヤけたり、涙ぐんだりする。
自分が考えていることと、他人が考えていることの違いを感じることが多かった。他人たちの共通認識は自分には理解できず、自分の言ったことは他人に理解してもらえない。空想の話はおろか普段の何でもないコミュニケーションすら伝わらなかった。
人と関わるのを避けるようになったのは、それによって生じた様々なミスやトラブルから、責められたり怒られたり、笑われたりしてきたから。

それを思った時、自分がどういう人間なのかを本当の意味で理解した。
幼少期の姿こそ自分の本質であり、全てなのだと。外界よりも内側の世界にしか興味がない、いつでも部屋の隅で絵を描いているだけの変わった少年。
だからこそ、周りと感覚を共有でき、理解し合える人たちを羨んだ。他人の目を恐れず思い通りに言葉を操り、コミュニケーションを楽しむ。それができるだけで色んな可能性が広がるし、人生そのものの充実度が全く違うのだろうなと。
でもそれはいつも、遠く離れた席か、画面の向こう側の世界。空想に浸って絵を描く少年は、絵を描く少年以外の誰かには決してなれないと知った。

そしてそれを知ったと同時に、そのまま人生の行く先に何が待ち受けているのか、その結末を察することができた。
人生のオチを理解できた。自分の運命を知ったと言ってもいい。それは明るいものではないということも。
自分にとって、今これから生きるということは、その結末に向かって真っすぐと歩いていくこと。その結末をそのまま受け入れていくこと。
苦痛だった。悲しかった。信じたくなかった。


それでモチベも上がらず、ボカコレも適当に流して、最低限のやることだけのんびりやって、ちんたら過ごしていた。
曲にもらう感想も、ほとんど嬉しさを感じなくなった。聴いてもらえるだけでもありがたいはずなんだが、可愛い曲作って「可愛い」と言われたところで、普通すぎるというか。
何もかもがどうでもよくなった。より以前から「元の自分に立ち戻りたい」という気持ちが強くなってたのもあるのか、外界との交流によって楽しいと感じてたことが、一つずつなくなっていくのがわかった。だんだん興味関心が狭まって、好きなものが減っていってた。

そんな中、ボカコレ前に買った伊根さんのアルバム『Direct-View AR』をボカコレ後に開封してみたのだ。全曲聴き、ライナーノーツを読んだ。
これも失敗なのかな、と思った。結果的にさらに精神的にどん底に落ちることになった。
伊根さんの文章から伝わる教養の高さ、内容とその表現から伝わる熱量、アルバム全体が醸し出す世界観の完成度。本人が言ってた「やりたい放題やった」の具現化だった。まだ小説を読む前だというのに、その魅力の塊に圧倒されてしまい、見事に心を折られた。
自分にはコレができるか? コレと同じ熱量を持っているか? と考えた時に、ああ、もう無理だ、と。
自分程度の頭の中で考えたものなんて、コレに到底及ばない。表に出したところで誰も見やしない。ならもう何かを作る意味もないし、すなわち生きてる理由も完全になくなったな、と。
よりによって自分は尊敬する作家によって殺されるのかなと思った。


そうして、一旦気持ちは完全に創作から離れていた。
やることもほぼ全部終わってるし、ただ消費の毎日を送り続けて今に至る。生活リズムは当然のように悪化。何も作らずにただ息だけして、飯食って寝るだけ。生きる理由もないのにわざわざ生きててくだらないなと思いながら。
休養と言い換えることもできるが、次第になんとなく、堕落していくのが気持ち良くなっていった。
とりあえず、映画を何本も観ていた。YouTubeで知らない音楽を漁っていた。観た映画は、人が死にまくるものばかり。死生観が狂ったからか、非現実感や刺激欲しさからか……理由はそれだけじゃないが。

ただそれにしても、フィクション……空想の世界というのは、その存在自体が想像以上に自分の心を洗ってくれるのだった。
心を慰めてもらう気分で観た『映画すみっコぐらし 青い月夜のまほうのコ』。
「叶わなくて悲しい思いをするくらいなら、消してしまったほうが楽しく暮らせると思った」
理想との向き合い方を問うメッセージ性がもろに今の自分と重なりすぎた。再び夢を持とうなんて考えられないほど荒んでたけど、夢を捨てたい気持ちにも寄り添ってくれた上で、「夢は大切なもの」と締めくくってくれたから、無神経に「夢は叶うゾ」とだけ言うモノよりも聞き入れやすかった。理想が叶うかどうかではなく、叶わないとしても持ち続けることそれ自体を肯定してくれてる気がして。BUMPの主題歌もすごく沁みた。
そして少しずつ精神的にもほぐれてきたところで、伊根さんの小説『TAME』を読んだ。
その中で「君は何になりたいの?」という会話のやりとりがあって。
「なりたいものなんてない。やりたいことが増えていくだけ」
「僕は僕が何者であるかに興味がない。名前や評価は結果論だから」
この返答に、なんだか自分が忘れていたすごく単純なことを思い出させられたというか。
これまでずっと“何者か”になろうとしていたのかも知れない。
けど重要なのは“何をやるか”なんだよなって。
どんなに複雑に悩んでも、結論はいつもシンプル。自分の今までの間違いを上手く言い表す最適な一言だと思った。そして、ずっとそういう言葉を探していたような気もする。
この堕落生活の合間でそれを与えてくれたのは、やはり誰かが提供してくれた“空想”だった。

今まで何度、死を考えてきたかわからない。養ってくれてる家族が不幸になるから死ねないと前までは思えた。けど今回、そんな自分の周りの数人程度が不幸になったところで世界に何の影響もないやろ……とまで考えるほどに病んだ。
それでもやっぱり生きる理由が欲しかった。というか自然と見つかるまで待ってしまった。どうしてだろう。やっぱり空想が自分の友達だからかな。

自分が何者か、誰にどう思われているかではなく、何をやりたいかを行動原理にしていく。これは自分にとって正解かはわからなくとも、良い指標になってくれるかも知れない。
それなら、もう偽りの自分を演じる理由もない。醜い部分や理想と違う部分なんて、自分にも他人にも平等に存在するし、どう取り繕っても隠せない。美しい部分なんて所詮表面だけ。そう思えば、愛されることや尊敬されることに必死になるのが無駄に思えてくる。何より、「良い人であること」は、自分のやりたいことと全く関係がない。
さて、この悟りが一体どこまで持つのだろうね。そのうちすぐ忘れてまた人目を気にし始めたりしたら、自分はその程度なんだろうね。



今後は、どうするかわからない。新垢を作ってやり直すか、今の垢のまま名前だけ変えて続けるか。
今までそれなりに真剣にやってたつもりだし、楽しい時間を過ごしたのも確か。だけどこのまま続けていくだけの誇りが今の名前にはもうないので、一旦区切りをつけたいまである。

精神的に浮き沈みはあるけど創作意欲のほうは徐々に戻ってきてる。
とりあえず、そろそろ物語を描いていきたいと思ってる。“っぽいもの”でもいいから。
何らかのストーリーの一部を描いた曲だったり、挿入歌を想定したものだったり、BGMだったりするもの。つまるところ「架空のRPG/アニメサントラ」をやりたい。動画説明欄とかコメント欄に文章とかセリフとか書いたりしたら面白そう。
実のところ、映像作品を観る時、自分は知らず知らずのうちに「創作したい物語の参考になりそうな世界」を探している。そして、聴く音楽も「その世界のBGMとして合いそうな音楽」を探している。実は長い間そんな節があった。人が死にまくる作品をたくさん観るのも、実は自分がそういう作品を作りたいと思っているから。


自分はただ、休み時間に描いてた自由帳の続きをやりたいだけ。
死ぬのは、それをやってから。
 

  

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