連載小説「ぬくもりの朝、やさしい夜」9

投稿9 卓也

朝5時、床に身体が落ちた。
その衝撃で思わず「うわ!」と声が出て
その声で起きた。

ここは研究室。
更衣室のベンチで寝ていた。
珍しいことではない。
昨日も深夜遅くまで
1人で顕微鏡にひっついてた。
「そろそろ帰るか」と思い白衣を脱いだ途端、
一気に眠気に襲われて
そのままベンチで寝てしまう。
眠りに入る数秒前に「今日は家に帰ろよ…」と
自分に言ってみるけど
「まあいいか」と思って結局寝る。

この「まあいいか」が
僕の人生の全てを言い表している。

そんなことが心に浮かんだ。変な朝だ。

研究室に誰かしらが来たら、
その誰かしらに
特段変わりない実験経過を引き継ぎ
それが終わったら一度家に帰って風呂に入り、
すぐ凛さんのところに行く。
そんな日がほとんどを占める日常だ。

研究室で顕微鏡と対峙している
他のメンバーたちとは
ほとんど会話をしない。

「パターンAは経過5日、細胞死にました」

そんな意味不明な伝達が僕たちの唯一の会話だ。

凛さんのお屋敷までは自転車を漕ぐ。
山道を30分登る。
これがかなりきつい。
でも顕微鏡の中に閉じ込められる日々とは
まるで正反対の世界を1日の間に行き来できるのは
なんだか不思議と満たされるものがある。

お屋敷を入ると、すぐに凛さんがいた。

「卓也、おはよう。」
「おはようございます。」
「今日はちゃんと家に帰ったんでしょうね?」
「あー。えーっと。いいえ。」
「これだからもう!お昼、佳奈が買ってきてくれた浅井さん家のパン、残ってるから食べてからお教室行ってちょうだい。」

凛さんは僕たちが空腹でいることが
心底心配で仕方がないのだといつも思う。
僕は痩せ型だし、あまり食べない方だからか、
凛さんはいつも「食べてちょうだい」と
言ってくるのだ。

なぜだろう。
あの人の言葉の持つ力とでもいうのだろうか
そういう目に見えない何かに僕はいつも包まれ
「まあいいか」という妥協の塊が
少し溶けるような気がする。

研究生なのだから研究室にいる方が
僕らしいとでもいうべきなのだろう。
でも僕はこのお屋敷にいる時間の方が
ずっと息がしやすい。

本当の自分なんて分からない。
きっと誰しもが分からない。
でも息がしやすいというのは
確かに分かる「心地よさ」だと思う。

ふわふわのいちごみるくパンにかじりつく。
優しい甘さに思わず
ふたたびまどろみそうになる。

「こんにちはー!」
鈴の音のような声が聞こえた。
残りのパンを急いで口に入れ、
コーヒーで流し込む。

「おう蓮!こんにちはー!」
玄関へ駆け込む。

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