連載小説「ぬくもりの朝、やさしい夜」(仮)

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診察室を出るともう窓の外は暗くなっていた。その日の時間の流れは本当に早かった。わたしはなぜか吸い込まれるように真っ暗な闇の映る大きな窓に向かった。鏡のように自分の姿がはっきり映った。それは確かに自分だったけれど、どこか違う人にも感じた。「なぜ山に行ったの?」そう心の中で尋ねてみた。もちろん何の声も聞こえなかった。瞳をじっと見つめた。黒い窓に映るわたしは、下瞼に涙を溜め込んでいた。そして止まるほどゆっくり瞬きをした。一粒の大きな涙がわたしの頬を流れいくのを見た。「泣いているの?」今度はかすかな声に出して、窓に映るわたしに話しかけてみる。その問いかけに答えるようにもう一粒の涙が頬を流れた。

看護師がやって来て、身体に異常もなく意識も回復したため、もう帰っても良いと私に告げた。わたしはただ頷いた。

そのときだった。背後からごくごく小さなブーツの足音が聞こえた。看護師はその足音の先を見て、あっと微笑んで会釈をした。わたしはゆっくりと振り返った。
小さなブーツの音を立てていたのは女性だった。ふわんふわんと内巻きの髪を揺らし、まるで小動物のように小さな歩幅で小走りしてこちらへやってきた。カーキ色のシャツワンピースがカサカサと音を立てていた。近づいてくるにつれて顔が鮮明に見えてきた。丸い顔に丸い鼻、丸い目をしたその人は、眉毛をへの字にしていた。そして驚くことに彼女は泣きじゃくっていた。

「あなた!あなたね!ああ!よかった!」

そういうと私の両手を手に取った。彼女の両手は毛布で包まれたかのように柔らかく温かった。

「あの、あなたは…。」

と問いかけたとき、慌てた様子で看護師は私に告げた。

「木の間さんを山で発見したかたです。『ささざかさん』という方です。」

わたしはすぐに彼女の両手からさっと手をひいて深々とお辞儀をした。

「ご迷惑をおかけして大変申し訳ありませんでした。」

気のせいだったか、そのとき見えた自分の足が病院のスリッパではなく、黒い革靴に一瞬だけ見えた。

すると「ささざかさん」はきゃきゃっと子どもみたいに笑った。

「ふふふっ。どうして謝るの。あなたは私に何かわるいことをしましたか。謝るときは悪いことをしてしまったときですよ。わたしはあなたに悪いことをされたつもりはないわ。それに『申し訳ありません』なんて久しぶりにきたわ。どんだ悪いことでもしない限りそんな言葉使わない方が良いわよ。あなたが一番大変だったんじゃないかしら?それに今も困っているでしょう。知らない人が急に大泣きして現れて。謝るのはこちらの方だわ。ふふっ。ごめんなさいね。」

そういうと彼女はまたわたしの両手を掴んだ。

「もう大丈夫よ」

そのときだった。足の裏から込み上げる何かを感じた。それは胸の辺りで一瞬ぐっとかたまり、喉へと流れ込んだ。
わたしは泣いた。大事な宝箱を取り上げられた子どものように泣いた。こんなふうに全身から涙が込み上げて来たことは生まれて初めてだった。そして誰かの前で涙を見せることもまた生まれて初めてだった。「ささざかさん」はいつまでもわたしの両手を包み込んでいてくれた。

「よかったわ。あなたが無事で。」

そう何度も繰り返し、笑いながら泣いていた。どれくらいの時間をそうして過ごしていたのだろう。

「ささざかさん」は「笹坂凛」という名前である。凛さんは私の人生を大きく変えた。わたしは凛さんにたくさんのことを教えてもらった。まるでもう一度子どものころに戻って凛さんがお母さんになって私を育てているようだった。凛さんに出会って、わたしの全てが変わった。「木の間佳奈」という名前だけを持ち逃げしたみたいに、わたしはもう凛さんに出会った瞬間からそれまでの自分ではなくなっていた。

病院の帰り道、緊急外来の出口に凛さんが立っていた。
私が帰るのを待っていてくれたのだ。

「佳奈さん、何食べるの?」
「食べる…?」
「夜ご飯。何食べるの?」
「ああ…今日はもう寝ようと思って。明日朝から仕事ですし。」
そう言うと凛さんは少し顔をしかめた。
「食べなきゃ。こういうときは食べなきゃ。」
「ああ…そうですよね。うん…。」
本当にその通りなのはわかっていた。でも随分前からお腹が空かないのだ。
「食べましょう。」
そう凛さんは食い気味に言った。
「え…」とわたしは固まった。
すると凛さんはわたしの手を取った。
「一緒に食べましょ」
そう言ってわたしを顔を覗き込み、桜の花が咲き誇るような笑顔でほほえんだ。
わたしは凛さんに手を引かれながら、「お屋敷」に向かった。

それが3年前の春になる。
わたしはあの春
凛さんに出会ったのだ。

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