落合陽一氏は芸術家か否か
芸術家として他者を納得させるために「社会体制に反骨的でなければならない」という定義を要するなら、宇宙や地球が織り成す野生の美を芸術と表現できなくなるし、子供はアーティストと呼べなくなりますね。
「現世的で、マジョリティーの思考・価値観に迎合し追従する彼らは芸術家ではない」となると、権力側から依頼されて描かれた、かなりの数の過去の西洋美術が否定されてしまいますね。肖像画も、宗教画も。
そして、それらに感動する人の心は何?という話になりますね。
そもそも芸術とは何でしょうか?
「芸術(芸術家)とは "こう" でなければならない」というカテゴライズは芸術的と言えるのでしょうか?
以前、明治時代の職人の超絶技工の工芸品を鑑賞したことがあります。私は精巧な工芸品は芸術品だと思いました。でもきっとそれを作った人は、自分を職人だと認識してると思います。
プロとアマ、技術と芸術の境目はとても曖昧で、人によって定義が違うので、好きに名乗っていいと思いますし、受け手が「あなたは芸術家ではない」と批判するのは個人の価値観の押し付けでしかなくて、筋違いだと思うのです。
もし「現世的で、マジョリティーの思考・価値観に迎合し追従する彼らは芸術家ではない」とか「芸術家は社会体制に反骨的でなければならない」というのが美術界隈の定義(=美術界のマジョリティーの思考・価値観)だとしたら、その定義に迎合せずにアーティストを名乗る落合さんは、逆説的に芸術家ということになり、この批判そのものが、落合さんの芸術性を肯定することになります。
カテゴライズには意味がないと思うのです。
もっと単純に「好きか嫌いか」で判断すればいいのになぁと、残念に思います。私はそれが鑑賞側の最も芸術的な言動だと考えています。
そもそも肩書きというのは、その人が「何をしてる人か」を端的に説明する役割しかありません。「実際に何をしているか」の方が重要だと思います。
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・落合陽一さんのこと
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