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メディアアートと美術評論の考察

メディアアートに対しての、一部の美術評論家の言説に違和感があります。
以前から気になっていましたが、なぜ「芸術家か否か」という批評・批判があるのでしょう?とても不思議です。

例えば、お笑い芸人さんを「あなたは面白くないからお笑い芸人ではない」なんて批判はしませんよね。「お笑い芸人」と認めた上で面白いか否かを思うことはあっても。
料理人さんに「あなたの料理は美味しくないから料理人ではない」とも言いませんよね。

どうして芸術の分野では「あなたは芸術家ではない」なんて論調がまかり通るのでしょうか。

テクノロジーは道具ですよね。
絵の具と本質的には同じなのに、絵の具もテクノロジーなのに、なぜ区別したがるのか分りません。批評側のテクノロジーへの理解の浅さを感じます。

明治の職人の超絶技工が芸術作品として鑑賞されているのと同じ構図です。これを考えただけでも、芸術家か否かというカテゴライズは無意味としか思えません。

それは他人が決めることではないはずです。

自分の主観的な定義で「あなたは違う」と批判するのは、価値観の押し付けでしかありません。それは批評家としてどうなのでしょうか?「そんな批評しか出来ないあなたは批評家ではありません」という話になって、収拾つかなくなりますよね?
批評に主観が入るのは仕方ないとしても、作品への批評ではなく、当人の芸術家としての素質、資質を否定する根拠にならないと思います。

「芸術=生き方」という考えが根強い印象はあります。
だから作品だけでなく、その背景(それを創った時の作者の状態、歴史的事件など)も一緒に解説されるのでしょう。
メディアアートは作品からは背景を読み取りにくいので、一部の批評家の定義からズレているのは推測できます。

メディアアートは一般的な美術とは順番が逆に見えるのかもしれません。
私は、落合陽一さんとTDKのコピー「テクノロジーでなにしよう」が大好きですが、これは道具が先にある印象を与えます。
「芸術=生き方」という固定観念を持っている人には受け入れがたいのかもしれません。内面の発露の衝動が(分かりやすく)先にあるべき、と。

ですが、これには反論が可能です。
落合さんの作品を例にします。

機械が出す音が虫の声に聴こえる"《虫鈴》の音"という作品があります。

ほとんどの人が聞き逃しているであろう音の類似性をキャッチする感性は素敵だと思いますし、内面の発露以外のないものでもないと言えます。
私はその感性に共感しました。

もしこの感性(=内面の発露)に気付かずに「聴こえるだけ。虫の音に似てるだけ。」といった感想から「芸術ではない」と論じているとしたら、
その感性こそ疑問視すべきだと考えます。

フェルメールには『牛乳を注ぐ女』という作品があります。

私は絵の良し悪し以前に、単純に「どうしてこれを描こうと思ったんだろう?」という疑問を持っていました。先日フェルメール展で実物を鑑賞して「フェルメールにとっては描きたい一瞬だったのだろう」という力強さを感じました。これがフェルメールの感性なのだろう、と。

落合さんの作品も本質は同じはずです。

芸術は「瞬間の切り取り」という要素があると思いますが、その切り取りの手法をもって芸術家か否かを論じるのは、本末転倒だと思います。
「何を切り取ったか」が芸術家としての重要ポイントではないでしょうか。その後、技法や手法が適しているかという批評になるなら理解できます。

メディアアートの「メディア」は、絵画でいうところの筆遣いや色遣いと同じことです。テクノロジーという道具を使って何を表現しているかに主眼がおかれるべきだと思います。

落合さんの作品のSilver Floatsは、瞬間の切り取りの連続です。その感性も表現の手法も、私は感動しました。

私は、芸術は『感性』が最も重要だと考えています。
子供の作品にも感動するのは、このためだと思います。技法が未熟でも、感性に感動する。生まれ持った感性が優れていれば、後から技法が付いてくるのだと。

批評家というお仕事の一部の方々は、感性よりも、作者や作品の背景、思想、技法といった理屈で判断してるような印象です。
「昔から良いとされているもの」を基準にしていて、感性という本質を見ていないから、時代に合わせた批評が出来ていないのではないでしょうか。
*そもそも美術を批評することの意義がよく分かりませんが・・・

おそらく、一部の美術批評家がメディアアートを受け入れない原因はこの3点だと思います。
 ・思考の出発点が保守的
 ・テクノロジーへの理解不足
 ・批評の判断基準が旧バージョン(感性より理屈)

最大の問題は「カテゴライズしたがること」です。

これが変わらなければ、批評家さんが自身の基準をアップデートしても、その定義から外れた新しい表現者に対して、同じことを繰り返しそうです。

まず「カテゴライズに意味はない」ということが浸透して欲しいと願っています。

関連→落合陽一さんのこと