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テクノロジーとアート

テクノロジーは「あの時代としては良くやった」の積み重ねだから、絵画や芸術と比較するのは変だと思います。

それを言ったら絵画も「あの時代としては、よくこの色が出せたな」という側面がありますよね。

フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』のターバンは、ラピスラズリを使った高級絵の具だけど、今は宝石を使わなくても同じ色を大量生産できます。その背景にはテクノロジーの発展がある。

切り離して考えるのも、比較するのもどちらも変だと思います。
落合さんのアートも、古い絵画も彫刻も、テクノロジーが深く関わっているはず。

アートは表現だから、表面に出ているものだけで判断するのは仕方ないとして、テクノロジーは『「あの時代としては良くやった」にしかならない。』というのは個人の主観でしかないと思います。『あの時代にこれが出来たとは!』と感動する人もいますよね。私はそのタイプです。

深層部で人間の営みとテクノロジーの発展は切り離せないのだから、どんな芸術家もその当時のテクノロジーの範囲で全力を尽くしていると思います。

天井画だって、あの時代に天井にあれを描くために工業技術を使っているはずですし、そもそも宝石を顔料に使うというのは科学だし工業です。テクノロジー以外の何物でもない。

何が言いたいかというと、私はこういう「何かを貶して何かを褒める」という手法が大嫌いです。ということです。

こんな締めでは論点がぶれるので、もう1つ、テクノロジーとアートについて考えたことを続けます。

多分、この図は多くの人がなんとなく感じていることだと思います。
それで、芸術と工学が対極にあるから、落合さんやチームラボはアートか否か?などという議論になるのでしょう。

私は「芸術と工学が対極にあるものなら、それを組み合わせようという衝動はアートなのでは??」と思うのですが。

ほとんどの人に「テクノロジーは日常生活の質の向上のためのもの」というイメージがあると思います。それを「生活の質」という本質のみに主眼を置いて便利さとは無縁の使い方をするのは、その行為自体がアートだと感じます。芸術か工学かという枠を超えて、表現への衝動を抑えずに作品を創り出す人はアーティストを名乗っていいのではないでしょうか?

以前の記事「落合陽一氏は芸術家か否か」で引用したツイートをご覧ください。

現世的で、マジョリティーの思考・価値観に迎合し追従する彼らの作品が、現行の国家や社会に肯定的な理由もそこにある。

テクノロジーを「マジョリティーの思考・価値観」から離れて表現に使う落合さんやチームラボは、この方の定義において芸術家と言えますよね。

ここまで考えて気がつきました。
美術界隈の方々はテクノロジーの定義が少し違うのかもしれません。畑違いの分野なので理解が浅い可能性がありますね。

この点については、これからも観察分析したいと思います。

最後に。
私は、落合さんとTDKの「テクノロジーでなにしよう」というコピーが大好きです。

関連→落合陽一さんのこと