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『落合陽一』という新カテゴリーの提案
私が落合さんと親しくなって1年が経過します。
この1年間、落合さんが「何をしている人か分からない」と言われているのを何度も見ました。何かの専門家にカテゴライズしたがって、どこにも当てはまらずに困っているようでした。そのために攻撃されているのも何度も見ました。
私はカテゴライズ自体が無意味だと考えていますが、カテゴライズしたがる心理について考察しました。
カテゴライズしたがるのも「わかりやすさ」を求めるからだと思います。
分からないものへ感じた不協和を解消するための心理的な作業という印象です。自分に馴染まないものを馴染ませるために、カテゴライズしたくなるのでしょう。
ですが判断の基準が「自分の価値観」なので、対象との不協和は解消しません。対象が持っている価値観を理解しないと、対象に近づくことは困難ですから。
本能的な縄張り意識が強い人は、解消しない不協和を感じる相手をテリトリーから排除したくなるのかもしれません。それが批判や嘲笑という攻撃として表出すると考えると、落合さんへの反応も自然なことだと納得できます。
そこで提案です。
どうしてもカテゴライズしたいなら『落合陽一』という新しいカテゴリが出来たと考えてはいかがでしょうか?
旧来の価値観や常識で判断できない人を、その基準で判断しようとするから軋轢が生じるのだと思います。
これだけ多くの人が落合さんをカテゴライズ出来ずにいるのですから、もう諦めて、新しいカテゴリを創設した方がスッキリすると思います。
落合さんへの反応をみていると、かなりの確率で「専門性」という言葉が出てきます。
それぞれの分野の専門家が「自分よりも知識が浅い」と批判したりしていますが、それを落合さんに当てはめること自体が間違っていると私は思います。
引き出しの「深さ」と「多さ」の違いです。尺度が違うのです。
落合さんのすごさは、多岐にわたる知識の広さと、それを組み立て直して新しい概念を作っていることです。なので一つの物事に対する深度は、落合さんを測る基準には適さないと思います。
「一つの科目に100点の人」が「全科目の平均85点で新しい科目を創っている人」を批判しているようなものです。最初から生息地が違うので、並べて考えることが的外れだと感じます。
知識が広いから、それぞれの専門家から攻撃されてしまいますが、そのこと自体が凄いことだと気付いて欲しいです。
「専門家から批判されていたから落合さんの知識は浅い」と読み違えては、本質を見失います。どれほど多くの専門分野から批判されているのか、その多さに着目したら落合さんを浅いなんて言えないはずです。
繰り返しになりますが、落合さんのすごさは、多岐にわたる知識の広さと、それを組み立てなおして新しい概念を作っていることです。ここが一番の重要ポイントです。これが落合さんが何者か分かりにくい理由だと思います。
新しい概念を創出している人を旧来の価値観で判断することは困難です。
だからこそ、新しいカテゴリとして考えた方が不協和が解消できると思います。
理解できないもの、分からないものを、「そういうものだ」と受け入れてみると、視野が広がって見えるものが変わってくると思います。
これが多様性ということだと私は考えています。
*念のため繰り返しますが、私自身は、便宜上やむを得ない場合以外のカテゴライズは無意味だと考えています。
→ 落合さんの言葉を読み解くポイント
関連→落合陽一さんのこと
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余談
確かに妄信ぎみの「信者」はいるようですし、それに対しての違和感は私も分かります。だけど、それは「信者」側の問題であって、落合さん自身とは切り離して考えるべきことです。
「信者をけしかけて反撃」と言われたりしますが、落合さんは自分の正当な抗議をしているだけで、一度も煽ってはいません。
これは大平さんも時々いわれていたので、著名人はこういう勝手な解釈をされてしまうのかもしれません。