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一筆小説「夕立」


透子は小さく開いたホテルの窓から渋谷のうら寂しい路地を見おろす。ラペリアのキャミソール姿のままで。

康司との水曜日の逢瀬。たった3時間のそれは、もう半年も続いている。

偶然、再会した高校時代の恋人とふらりと始まってしまった情事。始めは忘れていたときめきを埋めるように熱を帯びていたけれど、今となってはただの習慣のように透子には感じられる。

月に一度行く美容室と、いったい何が違うのだろう。

見おろした路地を、腕を組んで歩く高校生のカップルがとても幸せそうに見えた。
ただ微笑んで眼を合わせているだけなのに。

肌を重ねても幸せになれないなんて、どうしてそんな遠くまで来てしまったんだろう。





「お茶でも飲んで帰る?」
突然後ろから康司に問いかけられて、ふと我にかえる。
康司はいつの間にかすっかり身支度を整えていた。まるで何事もなかったように。


「どうしようかな」
迷ってもいないのに、透子はそう応えながら淡い水色のワンピースに袖を通す。さらりとした肌触りが、ついさっきまでの熱をするりと吸いとっていく。

何事もなかったのかもしれない。すっかり取れてしまった口紅をひき直しながら、透子は思った。
もしそうなら、お茶でも飲みながら楽しく高校時代の昔話を康司と出来るような気がするのに。

「少し買いものをして帰るわ」透子は振り向かずに言った。

「わかった。じゃあまた」と、康司も最初からそんなつもりなど無かったようにあっさりと応えた。


ホテルを出るときに、さっきの高校生のように微笑んで康司の眼を見つめてみた。ちっとも幸せな気持ちにはなれなかったけど。






渋谷のPARCOのmiu miuのドアを潜ると顔馴染みの店員が声をかけてきた。
「高村さま、新しい商品がいくつか入っております」

高村さま。
夫の名字で呼ばれることが不思議と照れくさかったのはいつ頃までだっただろう。
いつの間にかそう呼ばれることに、なんの迷いも感じなくなってすっかり自分の名前になってしまっている。

あの頃と、今。きっと何も変わらなくて、でも何が決定的に変わってしまっている。今朝、玄関先で見送った夫のネクタイの色は何色だっただろう。


顔馴染みの店員が勧めるままに、小さなショルダーをひとつ買って外に出てみたら、雨が降っていた。
激しく、アスファルトに叩きつけるような雨。夕立。

透子はいつも鞄に忍ばせているマリ・クレールの傘を忘れてきてしまったことに気がついて、PARCOのエントランスで立ち尽くした。


(なんだか、もう一歩も動けない気がする)
透子は、途方にくれた。

いったい自分はどこから来て、どこに行こうとしているのだろう。

透子は足場すら失ってその場にしゃがみこみたい気持ちになった。夕立はしばらく止む気配はなかった。


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